『 このろくでもない、素晴らしき世界 』

創世記18:20~26、ローマ8:18~25(5月25日)

サントリーのBOSSのCMで、最後に流れるテロップがある。「このろくでもない、すばらしき世界」。この言葉は私たちの生きる世界の実像を見事に言い当てていると思う。
毎日のニュースや新聞で目に飛び込んでくる報道の数々は、心痛めるものが多い。戦争、犯罪、事故、災害。それらを引き起こす人間もろくでもないし、地球という星の営みもろくでもない。しかし一方で、晴れ渡る青空、緑に木々や草花、空に架かる虹や豊かな水の流れ。それらは本当に素晴らしい。そしてその素晴らしい世界によって、私たちのいのちは育まれている。

創世記1‐2章の天地創造物語において、くりかえし登場する言葉がある。「神はこれをみて、良しとされた。」「神はお作りになったものすべてをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。」この世界は素晴らしいものとして創造された…そのように聖書は記している。

ところがこの聖書が記されたのは、バビロン捕囚の時代、ユダヤ人にとって最も苦難に満ちた屈辱的な出来事の直後であったという。「今自分たちが置かれている状況は、大変困難な状況だ。しかしこの世界は基本的に素晴らしいものとして作られた。そのことを信じてこの苦境の中を生きていこう…」そんなユダヤ人の信仰が込められているというのだ。

同じ創世記に「ソドムとゴモラ」の物語がある。人間の罪により、神に滅ぼされてしまう街のお話だ。しかし神はすぐに罰を下されたのではなく、アブラハムにそのことを告げられた。するとアブラハムは「50人の正しい者がいても滅ぼすのですか」と神に迫り、さらにその「正しい人」の数を下方修正、つまり値切り始めたのだ。その姿は大変凄まじい。罪に満ちた世を、それでも何とか救おうという思いに満ちている。自分たちだけ箱舟に乗り込んだノアとは対称的だ。

「被造物は神の子たちの出現を待ち望んでいます」(ローマ8章)。人間のろくでもない仕業によって被造物に滅びが広がらないように、というパウロの思いが表れている。「神の子」とはどのような存在か?他の人や世界は滅びても、自分たちだけは救われる、そんな「正しい信仰」の持ち主か?それではまるで「核シェルター」のような信仰だ。むしろ私たちの信仰は、核シェルターを必要としない社会を作るべきものではないか。
イエス・キリストが来られたのは、まさにこの「ろくでもない世界」であった。イエスはこのろくでもない世界を滅ぼすためではなく、何とかして救うために来られた。そして同時に「それでも世界は素晴らしい」そのことを教え示すために来られたのである。

2014-05-25 | Posted in | Comments Closed