『 主の昇天、師の不在 』

ヨハネによる福音書16:5~15(6月1日)

5月29日は教会暦では昇天日、イースターから40日目にイエスが天に昇られた(帰られた)日である(使徒言行録1:3-9)。使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父の右に座したまえり」の部分である。このあと「かしこより来たりて…」と再臨が語られるが、それまでの間イエスは天に昇っておられることになる。

マタイ福音書では最後のところに「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉が記されている。インマヌエル(主われらと共に)。聖書の最も大切な指針の一つとされるが、それはマタイのお話。ルカ→使徒言行録の伝承に基づくならば、イエスは「共にいない」ということになる。

主の昇天、それは弟子たちにとってみれば、「師の不在」という出来事だ。彼らの立場に立ってその出来事をどう受けとめればよいか考えてみよう。

イエスの十字架の時、イエスを守らず散り散りに逃げてしまったこと。それは彼らにとって痛恨の出来事であった。しかしその後イエスがよみがえり、うしろめたさを抱えた弟子たちを決して裁かず、赦し受け入れて下さった。そして40日間共にいて大事なことをさらに教え示して下さった。それは何と心強く、心休まる日々だったことだろう。

しかしその平安も永遠には続かない。イエスが天に帰られる日がやってきた。ルカではイエスが天に昇ると弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰った」と記されている。「ホントかな?」と思う。使徒言行録には天を見上げる弟子たちの姿が記される。師の不在の中で不安と心配で心が満たされ、茫然と天を見つめるしかできなかった弟子たち。そんな姿に共感を覚える。

私たちの人生においても頼りにしていた人を失って、どうしていいか分からず途方に暮れる時がある。しかしそのつらい時を経ずして、私たちが成熟へと導かれることもない。

「わたしが去ることはあなたがたのためになる」とイエスは言われる(ヨハネ16:7)。イエスが去ることで「弁護者」「真理の霊」が与えられるからだ、と。弟子たちが師の不在のただ中を、もはや師を頼らず自分の力で歩みだそうとする時、聖霊の導きが与えられるというのだ。

私たちの心の中には「イエスさまがいつも共にいてくれる」という素朴な信仰がある。それが間違いだというのではない。しかし私たちは同時に「師の不在」の時代を生きているのだ。やみくもに人を頼らず、もたれ合う歩みを離れ、不十分でもひとり自分の足で歩み出そうとする時、そこで私たちは聖霊の導きを最も強く感じることができるのではないか。

2014-06-01 | Posted in | Comments Closed