『 ポケットのらいおん 』

使徒言行録2:1~11(6月8日 ペンテコステ礼拝)

ペンテコステの出来事は「早い宗教体験」(@『信じる気持ち』富田正樹 著)として見ると、とても奇妙な出来事に映る。聖霊の導きを受けると昨日まで弱々しかった弟子たちが急に強くなり、今まで行ったことのない国の言葉でいきなり話し始めた、というのだから。

しかしそれが、長い時間をかけたゆるやかな変化の始まり、すなわり「遅い宗教体験」だったと考えると、納得のうちに受けとめられるように思う。同じような体験は、私たちもまたどこかで経験しているからだ。すなわち、「師の不在」という状況の中で弱かった人間が神の導きの中で少しずつ強く歩めるよう導かれていった…そしてその神の大いなる恵みを、言葉の壁を越えて人々に伝えたい!と思ううちに、次第に言葉を習得していった…と。

「師の不在」という状況は、旧約のヨシュアも同じ立場であった。しかしその内心はかなり違う。モーセから直接「たすき」を渡され、「強く、雄々しくあれ!」と励まされて後継者として歩むヨシュア。そこには十分な決断と準備があったことだろう。

しかしイエスの弟子たちは違う。肝心のところで師を裏切った疚しさ。ユダヤ人たちを恐れる臆病な心。「強く、雄々しくあらねばならない」と分かっていても立ち上がれない。弱さの中でかろうじて集まって祈るのが精一杯。そんな隙間だらけの心でいた弟子たち。その隙間に向かって、聖霊の風が吹き込んだのである。

具体的に何が起こったのか、それはもはや知る由もない。しかし確実なことがひとつある。放っておけば歴史の片隅に消えていたかも知れない弟子たちが、そうならずにイエス・キリストの出来事を後世の人々・世界の人々に残していく働きを担ったということ。弱虫の弟子たちが、いつしか勇気を得て自分の足で歩み始めて行く、そのターニングポイントとなる出来事が確かにあったということだ。

「ラチとらいおん」という絵本がある。弱虫の少年・ラチのもとに、ある日小さなライオンがやって来る。ラチはライオンの導きによって少しずつ弱さを乗り越えることができるようになる。ある日、友だちがいじめられているのを見て、いじめっ子に抵抗を試みようとする。「だいじょうぶ。ぼくのポケットにはらいおんがいるんだから!」そしていじめっ子を見事追い払い、ポケットの中を見ると…そこにあったのは一個のリンゴだった。ライオンがいなくてもラチは強くなれたのだ。

「聖霊の導き」とは「ポケットのらいおん」のことではないだろうか。目には見えなくても、神さまのお守りがあると信じる。すると「なんだか勇気が湧いてくる」。それが私たちにも体験できるペンテコステの物語である。

2014-06-08 | Posted in | Comments Closed