『 神さまのこども 』

ローマの信徒への手紙8:12~17(6月15日)

サッカーで「神の子」と言えばディエゴ・マラドーナ、気象の世界で「神の子」は「エル・ニーニョ現象」のこと。しかし信仰の世界、聖書の世界においては、それは何よりもイエス・キリストのことを表す言葉である… 多くの信仰者はそんな思いで受けとめることであろう。

神のひとり子であるイエスが、人となってこの世に来られ、十字架にかかることによって人の罪を引き受け赦しを与えられた…。神の子による贖罪論。罪の赦しの物語。それがキリスト教の教義に基づく「神の子」のとらえ方である。

けれども、聖書を読むと「神の子」という言葉をめぐっては、そのような教義の枠には収まらない、様々なとらえ方があることが分かる。そもそも、イエスが自分で自分のことを「神の子」と称されたた箇所は、マルコ・マタイ・ルカの共観福音書には見つけられない。いずれもそれは「他の人がイエスのことをそのように呼んだ」という記述となっている。

独特の世界観を持つヨハネ福音書だけは、イエスが「神の子」と自称されたと思われる箇所を含んでいる。しかし他方、新約聖書を広く読むと、「神の子」とはひとりイエスだけを指す言葉でもない。「平和を実現する人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)「あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ3:26) そして今日の箇所、ローマ8:14もその一つである。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」

旧約聖書では「神の民」という概念が使われた。神の民には一つの「正しい振る舞い」が求められた。「心をつくし、魂をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申6:5) これを夜も昼も心に留め、目につくところすべてに記しておけ、と。なぜこのような徹底をするのか。それはその命じられたことを守るのが、実は簡単ではないからではないか。

聖書の教えを完璧に守ることができたら「神の子」。そうでなければ神の子ではない。そういう考え方は、イエスの時代の律法学者のものである。それは人の心を「奴隷」にはするが、決して「福音」とはならないと思う。

私たちは律法や聖書の教えを、常に完璧に守れる強い立派な人間ではない。時に間違い、道を誤る弱い存在である。その弱さを認めるところから始めよう。しかし、私たちをその弱さの中に居直らせずに、くりかえし大切に歩みへと押し出してくれる、気付きを与えてくれるものがある。それが「聖霊の導き」である。その聖霊の導きを信じるとき、私たちはみな「神さまのこども」になることができるのだ。

2014-06-15 | Posted in | Comments Closed