『 おもてなし 』

マルコ福音書1:29~34(6月22日)

旧約聖書は偶像崇拝を厳しく禁じる。形ある像を拝む行為そのものに問題があるのではなく、そのような行為の内面に潜む人間の思いこそが問題なのである。「この像を拝んでおけば、私の願いは叶えられる…」そんな風に人間の欲望に仕える神を求める心が問題なのだ。「貪欲は偶像崇拝に他ならない」(コロサイ3:5)

そうは言っても私たちは様々な願望を神に向かって祈る。それは自然な「祈りのこころ」である。そんな私たちの祈りが、偶像崇拝的なものにならないためのお手本がある。ゲッセマネの祈りである。「できることならこの盃(十字架)を取り除けて下さい」とイエスは心から祈る。しかしその後に「私の願いではなく、みこころに敵うことが行われますように。」これが人と神の関係を逆転させない祈りの姿である。

新約聖書には、イエスのもとに病気の癒しを求めて続々と人が押し寄せる出来事が記される。イエスが持っていた病人を癒す力、それは不思議な超能力というよりも、人々のイエスに寄せる信頼、治してほしいという切なる願いが相俟って起こった奇跡ではないか。「あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ5:34)

人々は癒しを求めてイエスの元に集まった。願いを叶えてくれる救い主を求めた。それは「偶像崇拝」なのだろうか?そうではない。病の癒しを心から願う気持ち、それは貪欲から出たものではない。しかし「みこころのままに」と委ねる思いを忘れると、知らないうちに偶像崇拝的な祈りになってしまう。

シモン(ペトロ)のしゅうとめがイエスによって熱病を癒してもらった箇所である。イエスの弟子となったシモンとアンデレ。しかし大事な師を家に迎えるに際して、彼女は家族として十分な役割を果たすことができなかった。そんな彼女をイエスはいたわり、癒されたのである。

彼女が願い出たのではない。イエスの方から近寄ってこられたのである。神さまの方から近付いてきて与えられる癒しもあるということだ。まだ物語は続く。イエスによって癒しを与えられた彼女は、起き上がって一行を「もてなした」。これは「ディアコニア」、つまり「仕える」「奉仕する」とも訳される重要な言葉である。願いを叶えてもらった彼女はイエスと神に仕えた。これは大切な振る舞いだ。

私たちの祈りが「偶像崇拝的なもの」にならないようにするために大切なこと。ひとつは「ゆだねる」ということ、そしてもう一つは「仕える」ということだ。「お・も・て・な・し」の心を抱いて神と人に心から仕える者となる。そういう歩みの中で、私たちの祈りは整えられていくのだ。

2014-06-22 | Posted in | Comments Closed