『 生ける神の神殿 』

『 生ける神の神殿 』
2019年1月27日(日)
ハガイ2:5-9 ルカ21:1-6

アントニオ・ガウディ設計のサクラダ・ファミリア教会は、建築開始以来130年が経つがまだ未完成である。その内部装飾の責任担当者は外尾悦郎という日本人だ。最後の建物となる「イエスの塔」の内部を、色タイルによるグラデーションのデザインで、天地創造から最後の審判までが一望に感じられる空間にしたいと願い作業を続けておられる。完成した際には、永遠を感じる場所となるに違いない。

しかしその「永遠を感じられる場」としてのサクラダ・ファミリア教会も、人の手によって造られたものである以上、決して永遠のものではない。何万年、何億年という時間軸で見れば、やがて砂となり塵と化してゆく。世界中に同じような壮大な宗教建造物があるが、どれひとつとして永遠に存続するものはない。

今日の旧約の箇所は、預言者ハガイが神殿再建への励ましを語る場面だ。人々の信仰の象徴であった神殿は、バビロン捕囚によって破壊されてしまった。これはユダヤ人の信仰の危機であった。解放された人々にとって、神殿の再建こそが精神的復興の礎となることをハガイは語る。そうして再建された神殿こそ、イエスの時代にも建っていたエルサレムの神殿である。

ヘロデ王が総力を挙げて改修したと言われる神殿の前で、その荘厳さに驚き興奮する弟子たちに向かって、イエスは言われる。「この石のどの一つとして、崩されずに残る物はない」。イエスは神殿に対して批判的であられた。エルサレムに上って最初に行なったのが「宮清め」である。

なぜイエスは神殿を批判的に語られたのか?神殿で祈る人々の素朴な気持ちまで否定されるのだろうか?そうではない。イエスが批判するのは、神殿の権威を傘に着た、ユダヤ教指導者たちの権威主義的な振る舞いに対してである。

宗教が人を縛るということがある。様々な戒律を人に課し、あれをしちゃダメ、これをすべきだ、守らなければ神の罰を受ける… そのような形で人々の生きる喜びをむしろ奪うような宗教のあり方をイエスは批判されるのだ。

では、イエスはどんな信仰を持つことを教えられたのだろうか?新約の箇所に出てくる女性の姿がそれを表している。自分が手にしていたたった2レプトン(今の感覚では200円ほど)の硬貨。しかし彼女にとって、それは全財産であった。そのすべてを献げる姿を見て、イエスは「彼女はどんな金持ちよりもたくさん献げた。」と言われた。大切なのは金額ではなく、どれほど精一杯の思いで献げたか、ということだ。そのような心を込めた信仰に生きる人こそ、本当に喜びに満ちた歩みへと至れる人なのだ。

パウロはコリント第2の手紙で「神に導かれ生きる私たちは、生ける神の神殿だ」と記している。たとえ欠け多き小さな器でも、神の愛を信じその導きに精一杯応える…。そんな人こそ、どんな絢爛豪華な神殿にもまさる「生ける神の神殿」なのだ。

2019-01-27 | Posted in | Comments Closed