『 主は我らの王 』

2021年10月17日(日)
イザヤ33:17-22 ヨハネの黙示録7:9-17

コロナ状況が落ち着いてきて、少しずつ日常が戻ってきた。何度も繰り返される緊急事態宣言に世の終わりを感じた人もいるだろう。私たちは何か良くないことが続くと、この世の終わりがきたのではないかと思い不安になる。

1980年代、私の小学生時代であるが、ノストラダムスの大予言が流行った。子どもたちの間でも1999年に世界は滅びると信じられていた。当時1年先の自分すら想像できない年齢であった私でも、計算して「24歳で死ぬのか」と遠い先のことを思い悩んでいた。しかし実際には1999年に世界が滅びることはなかったし、2000年に変わるときに起こるだろうとされていた様々な事柄も何も起こらずに終わった。私たちは噂話でも信じて不安になる。怖い思いをする。

2000年前の原始キリスト教会の人々は噂ではなく、本当に怖い思いをしていた。できたばかりのキリスト教は血なまぐさい迫害に遭っていた。そしてさらにこれからローマからの迫害に遭おうとしていたこのときに、ヨハネの黙示録は書かれた。そこには、世界の終わり、神の裁きの開始、神によって永遠の救いへと選ばれた者たちの救いの開始が、様々な幻を通して描かれている。

今日の聖書日課はその一場面。白い衣を着た大群衆が手になつめやしの枝を持ち、玉座と子羊の前で大声で神を賛美している様子が語られている。彼らは「大きな苦難を通ってきた者(新約聖書略解では彼らは艱難を体験しただけではなく、今やその艱難から離れている、すなわち殉教の死を遂げた忠実な僕たちであると説明している)」地上での忠実な信仰生活を全うした彼らは何の危険もない神の庇護の元に置かれている。辛い苦しみの中にある民にとってはパラダイスのように見える世界が、神に召された後の世界として広がっている。彼らにとってこれはどれほどの希望であっただろうか。

旧約、イザヤ書でもアッシリアによって苦しめられていたイスラエルに対して「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与える方。主は我らの王となって、我らを救われる。」と語られ、必ず救い主が現れることが約束され、彼らの大いなる希望となっている。そして本当に救い主は現れ、我らを救い、我らの罪のために十字架につけられ、復活された。その後、キリスト教が生まれ、今に至っている。

主が我らの王として、私たちを守り導いて下さる世界。その世界を遙か遠くに仰ぎ見ながらも、そこに希望を置くだけではなく、今の生き方も大切にしたいと思う。

「♪主よ終わりまでしもべとして、あなたに仕え従います」
(讃美歌21 510番)

与えられた命の終わりまで、そして召された後も主を我らの王として仕える者でありたい。

2021-10-17 | Posted in | Comments Closed