『 地を這うようにして 』

2015年3月1日(日)
ルカによる福音書11:14-26

「差別はいけない」ということは、現代に生きる者にとって大切な事柄として教えられてきた課題である。しかし人間とはどこかしら差別的な意識を抱いて生きてしまう生き物だとも思う。差別を生み出すものは理屈や論理というよりはむしろ、「皮膚感覚的な嫌悪感」ではないだろうか。「だから差別は仕方がない」と言いたいのではない。そのような「皮膚感覚的な嫌悪感」があることを認めた上で、それを乗り越える努力をすることが大切なのだ。

聖書の時代にも差別はあった。民族・宗教・病気や障害によるものだが、その源にあったのも、そのような皮膚感覚的な嫌悪感だったことだろう。重い皮膚病(現代でいうハンセン病)の人や、悪霊に取り憑かれた人を人々は共同体から弾き出していた。

そんな人々をイエスは癒されたと記される。それはその人たちの住む場所に近づいていかれたということだ。多くの人々が交わろうともしなかった人たちと、イエスは進んで交わりを持ち、その体に触れて癒された。その光景をみた周囲の人の中には、こんな心無い言葉を投げつけた人もいただろう。「汚らわしい!」

イエスが悪霊に憑かれた人を癒されるのを見て、その人たちは言った。「あいつは悪霊の頭・ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」。ベルゼブルとは「蠅の王」という意味で、異邦人には崇められていた存在だ。人が死ぬと遺体に蠅がたかる。それを霊を天に運ぶ役割と考えたのだ。

しかし清浄を好むユダヤ人は「蠅の王」を忌み嫌った。確かに死体にたかる蠅の姿は、正直言って気持ちの良いものではない。それこそ「皮膚感覚的な嫌悪感」を抱いて、ゾッとする気分でその光景を見ていたのであろう。

その「蠅の王」にイエスがたとえられているということ。それは何を意味するだろうか?「汚れ」と人々が見なすもの(病人)に近づき、体を寄せ、触れる。地を這うようにしてその人の隣にたたずみ、その痛み、涙や汚物までも受けとめて共に歩もうとされる…そんなイエスの振る舞いがこのような中傷を生み出したのだ。その姿は決して「汚れ」てなどいない。むしろ私たちにとっては希望の姿なのだ。

2015-03-01 | Posted in | Comments Closed