『 共に苦しむ神 』

2015年3月8日(日)
イザヤ63:7-14、ルカ9:18-27

東日本大震災のような、過大な被害をもたらすような災害の体験は、信仰を抱く者に対して大きな問いを投げかける。「果たして神はいるのか。この出来事のどこに神のみこころがあるのか」と。写真家の藤原新也氏は端的に「神は死んだ。」と記した(『アエラ』)。この問いに、あなたならどう答えるだろうか。

「神は苦しみを与えるだけでなく、きっと救いの道を開いて下さる。信じる者を守って下さる。」という素朴な信仰もあるだろう。そしてそのような信仰によって支えられる人もいる。しかしそう信じても、願い通りの救いが与えられないこともある。そんな中で「それでも神を信じる」という信仰があるならば、それはどんなものなのだろう。

十字架への道を歩むイエスと、弟子たちとの会話。「群衆は私のことを何者だと言っているか。」「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者などと言っています。」「ではあなたがたは私を何と言うか。」「神からのメシヤです。」

当時のユダヤ人にとってのメシヤ(救い主)とは、魂や罪の救い主というよりはもっと具体的に、例えばローマ帝国の支配から解放してくれるリーダーという期待があった。「そういうリーダーとしてあなたに期待しています。」と語る弟子に向かって、イエスはこれを「戒められた」と記される。

そうしてイエスが語られたのは、律法学者や祭司長から排斥され殺される「人の子」の姿であった。具体的・物理的な救いを期待する弟子たちに、イエスはその期待に沿わない姿を示される。それは「苦しみを取り除けてくれる救い主」ではなく、「苦しみを共にして下さる救い主」の姿だ。

バビロン捕囚後に活動した第3イザヤは「主は彼ら(イスラエル)の苦難をご自分の苦難とされた」(63:9)と語る。勇ましい姿のイメージが強い旧約の神さまであるが、その原点もまた「共に苦しむ神」なのだとイザヤは語る。

「共に苦しむ神」。「神は死んだ」と分析的にクールに語る心情の前では、そんな神さまなど無力な存在に映るだろう。しかし実際の苦しみの中にある人にとっては、別の受けとめ方もあるのではないか。人が一番辛い思いを感じるのは、苦しみそのものよりもむしろ、「誰もこの苦しみを分かってくれない」という孤独の中に捨て置かれることかも知れないのだから。そんな行き場のない魂を抱える者にとって、「共に苦しむ神」は大きな慰めだ。苦しみそのものが消えることはなくても、その苦しみを分かってくれる、共に悩んでくれる、そんな存在がひとりでもあるだけで、人は奥深いところで支えられる体験をすることができるのではないかと思うのだ。

イエス・キリストの十字架。それは私たちの信じる神さまが「共に苦しむ神さま」だということ、そのことを単なる言葉や抽象的な概念としてではなくて、具体的な事実として示された出来事ではないだろうか。

 

2015-03-08 | Posted in | Comments Closed