『なされた業によって 』 川上盾牧師

2024年9月22日(日)
ヨハネ10:31-42

『新宿野戦病院』という連続TVドラマを観ていた。主人公のヨウコ先生は日系アメリカ人の元軍医、しかし日本の医師免許はなく、不法就労の形で働いている。どんな立場の人でも「生死をめぐる局面では命は平等」との考えで助けてゆく。

救われた人にとっては彼女が有資格者であるか否かはどうでもよい。「こんな自分の命でも助けてくれた」、そのなされた行為がすべてなのであった. . .。このドラマのヨウコ先生の姿、今日の聖書箇所のイエスの姿にどこか重なると思う。

イエスとユダヤ人との対立状況の中で、ユダヤ人はイエスを石で打ち殺そうとした。なぜか?それは「神を冒涜したから」(33節)と語られる。「あなたはメシヤなのか?」というユダヤ人の問いに対して、「わたしと父は一体である」(30節)と返した言葉が、ユダヤ人たちには許せなかった。イエスに「神の子」と名乗る資格や権威が「ある」と言うイエスと「ない」と言うユダヤ人。その議論は永遠の平行線である。

ただここでイエスは大切なことを言われる。「私が父の業を行なっていないのであれば、信じなくてもよい。 しかし、行なっているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。」(37-38節) 私の資格や権威、氏素性や立場ではなく、私のなした業を見て判断しなさい」と言われるのだ。

「あなたはメシヤなのか?」この同じ問いをイエスに投げかけた人がもう一人いる。バプテスマのヨハネだ。来るべきメシアを強く待ち望む信仰に支えられて、どんな権力者相手でもひるまずに戦い続けた孤高の預言者である。

ヨハネは「どんな権力者をも打ち倒す圧倒的な力を身に帯びたメシア」を望んでいた。そしてそんなメシア像をイエスに期待した。しかし実際のイエスの活動を見て、「この人が本当に?」という疑問を抱いたのだろう。既に獄中にいたヨハネは、弟子を遣わして「来るべき方はあなたなのでしょうか?」と尋ねさせた。

この問いにイエスは“Yes”とも“No”とも答えない、その代わりにこう言われた。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」それは病人や身体の不自由な人が癒され、貧しい人が福音を聞かされている姿であった。イエスはここでも「なされた業で判断しなさい」と言われるのだ。

私たちは人を見る時、何を見て評価を下すのだろう?血筋や氏素性、学歴や職業、地位や名誉といった「肩書き」「属性」で判断することがあるのではないか。そのような判断はイエスと対立したユダヤ人の考え方だ。そうではなく、なされた業によって判断する大切さをイエスから学びたい。

このように言うと、「自分には誇るべき業など何もない」と意気消沈する人がいるかも知れない。でも大丈夫、神さまは立派な業を行なった人だけを愛されるのではない。愚かで滑稽だけれども、だからこそ愛おしい. . .そんな神の愛を私たちに示してくれたのがイエスなのだから。