2025年2月2日(日)
創世記28:10-22, マタイ21:12-16
突然の風景に「視点の転換」を体験することがある。たとえばサイクリングをしていて突然差し込んできた夕日の輝きに、「自分中心で生きている」という視点や感覚が、「世界の中で生かされている自分」という思いへと変えられる体験だ。そんな時、「信仰って、こういうことなんだろうな」と思う。
今日の旧約はヤコブの体験した不思議な出来事。父イサクから「長男への祝福」を奪い取ったことで兄エサウの怒りを買い、逃避行の途中で夢ながらに見た「天の梯子の幻」の場面だ。おののくヤコブはそこで神の約束の言葉を聞く。「あなたが横たわっている地をあなたと子孫に与える」。ヤコブは叫んだ。「ここはまさしく神の家、天への道だ!」。
ヤコブに何か功績があって約束の言葉を受けたのではない。むしろ、自己中心の思いから策を講じ、それが原因で兄に恨まれ逃げている時の出来事である。言わば絶好調ではなく、ピンチの時. . .そんな時に神との出会いが思いもよらない形で「向こうから」飛び込んで来て、「視点の転換」が起こる。信仰とはそのような転換の中で「天への道」が開かれる経験のことではないだろうか。
新約はイエスによる「宮清め」の場面。私たちは「慈しみ深い友なるイエス」というイメージを持つが、ここでのイエスは私たちのイメージを裏切る姿である。イエスは何を怒っているのだろう?
エルサレムの神殿、それは「選ばれた民」イスラエルが、神への信仰と感謝を込めて築いた聖地であった。「神の家」と呼ばれるにふさわしい場所. . .みんながそう思い込んでいた。しかしその思い込みを打ち破り、「あなたがたは祈りの家を強盗の巣にしてしまった!」と激しく語る。
中世カトリック教会が、絢爛豪華な教会の建築・維持のために「免罪符」を売り、庶民から献金を集めていた。それに対し、M.ルターは憤り宗教改革ののろしを上げた。イエスの怒りはルターの怒りと同じようなものである。
神殿の存在に向けられていた人々の信頼や祈り、それを利用して一部の人々(律法学者・ファリサイ派)が権力を握り、庶民を牛耳ろうとしている. . .。「神を中心に」ではなく、自分たちの思いを中心にした世界を作り、「視点の転換」を忘れていつの間にか「自分が神」になっていた姿を、イエスは厳しく戒めたのである。
商売人の台をひっくり返し、彼らを追い出す. . .。これはある国の大使館前でその国の国旗を燃やすに等しい行為である。イエスと律法学者たちの対立は決定的となり、イエスは十字架へと追いやられてゆく。
「そんなことしないで、もっと穏やかにうまく立ち回れなかったのか」. . .私たちはそんな思いを抱く。しかしイエスは「いつかは対決せねばならない時が来る」と心にとめておられたのではないか。「今がその時だ!」と。イエスはご自身の命を賭けて「視点の転換」の大切さを示された。そして十字架への道を歩み抜くことを通して「天への道」を示されたのだ。