2025年5月11日(日)
ネヘミヤ2:11-18, ヨハネ11:17-27
旧約聖書はネヘミヤ記。エズラ記と共に、バビロン捕囚後、壊滅状態になっていたイスラエルをかつてのような信仰共同体へと再建しようと復興に取り組んだ人々の物語だ。
3人の人物が三者三様の形で復興に取り組んだ。①ゼルバベル/廃墟となっていた神殿の再建に取り組んだ。ハード面の復興だ。②エズラ/信仰の拠り所となるトーラー(律法)の再教育を行なった。ソフト面の復興である。
③ネヘミヤ/城壁の建設。せっかく再建された神殿も、城壁がなければ他民族に攻められっ放しとなる。どんなにハード・ソフトが整っても、ウイルス(外敵)が侵入し放題では意味がない。ネヘミヤの取り組みは、セキュリティ・ソフトの導入だと言えるだろう。
ここまでを聞くと、3人のしたことは「よいこと」に思える。しかしその働きを担う彼らを突き動かしていたのは、排他的なナショナリズムであった。例えば捕囚の期間にカナンの地で他民族と結婚した人たちは離婚させられ、律法違反(安息日の労働)をする者に対しては、彼らを殴り、毛を引き抜いた…そう記されている。
復興・回復を目指すことは大切だ。しかしそれが乱暴で排他的なナショナリズムに繋がる…それは現代でも見られることである。何千年経っても治らない、人間の宿痾なのかも知れない。
新約はラザロの復活の物語。マルタとマリアは、きょうだいのラザロの病気が癒されることを願い、イエスに使者を送る。しかしイエスはすぐに現地に向かわず、数日間足踏みをされるのである。ようやくイエスが彼らの家についた時、ラザロは既に死んでしまい、墓に納められて4日も経っていた。
マルタは「なぜもっと早く来て下さらなかったのですか!?」とイエスに抗議する。するとイエスは「あなたのきょうだいは復活する」と言われ、まだ絡んで来るマルタに「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる」と言われた。これはクリスチャンのお墓にも刻まれるよく知られた言葉である。しかし状況的に見れば、無茶な発言だ。墓に入れられて4日も経っている。「なに寝ぼけたこと言ってるの!?」とも思える発言である。
しかしマルタは「あなたはそのことを信じるか?」と言われて、「信じます!」と答えた。ここに、ユダヤ人が長い苦難の歴史の中で受け継いできた「復興・回復を信じる信仰」が残されている…そう思う。人が絶望から這い出すには、時にはそのような「根拠のない信頼」が必要なのだ。
東日本大震災や、能登半島震災の凄惨な状況を見た当時、「正直、復興・回復はムリではないか…」との思いを禁じ得なかった。しかしそんな中を、現地の人々は小さな力を積み上げ、新たな道を開こうとしておられる。「復興・回復を信じる」という思いが、報いられることを願わずにはいられない。
♪世界の人々が
『もうだめなんだ』とたとえ言っても
十字架で死んだ、あのイェスさまが
みんなの希望なのだ♪
(こどもさんびか88「イースターのあさはやく」より)