2017年04月のメッセージ
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2017年04月30日
2017年4月30日(日)
マルコ12:28-31、Ⅱコリント12:9-10「誰も友だちになってくれる人がいないような人の友だちになりなさい」亡き父・横堀哲夫が幼少期に語ってくれた、今も心の中に息づいている言葉である。そんな父、そして母の関わる施設で、家庭を必要とする子どもたち・大人たちと過ごす日々の中で、人が人として生かされている交わりのまん中に神さまがおられる尊さを肌身で感じて育った。
大学を卒業し、都内の児童養護施設で働いた。考えられないような虐待を受けた子どもたちと共に祈り、「いかにあなたが大切か」ということを伝えてきた。ある時食前の祈りで、ひとりの子がすべての人のことを祈る長い祈りをささげた。虐待を受けた子どもがその傷を負う中でみんなのために祈り、それをみんなが聞いている姿。それはひとつの奇跡だと思った。人間にはいろんな弱さがあり葛藤がある。でも大丈夫、大きな手のひらがある…そんなことを感じさせられた出来事だった。 続きを読む »
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2017年04月23日
2017年4月23日(日)
マタイによる福音書28:16-20共愛学園中高のイースター礼拝のメッセージを頼まれ、「つかみ」のつもりで、きゃりーぱみゅぱみゅのイースターソングを仕込んでいった。「イースター」を「いいスタート」と語呂合わせで歌う春のパーティソングである。「つかみ」としてちょっとだけ使うつもりでいたが妙にハマってしまい、全曲歌ってしまった。「新しい場所に向かって闘いを続ける」とか「変わらないものがある、それはきっと美しい」という歌詞は、聖書のイースターメッセージにもつながるものがあると思った。
先週、私たちは喜びのイースターを迎えた。イエスのいのちが十字架の上で空しく終わったのではなく、神の力によってよみがえり、新たないのちとなって信じる人を励まし導き続けてくれる。それはわたしたちの信仰の原点であり出発点である。イースターを迎える春は、私たちにとってまさに「いいスタート」の季節である。 続きを読む »
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2017年04月16日
2017年4月16日(日) イースター礼拝
マタイによる福音書28:1-8「わが神、わが神、「なぜ私を見捨てられるのですか!」イエスはそう叫んで息を引き取られた。それは絶望の叫び、この世の苦痛の極みだった。弟子のひとりが急いでイエスの遺体を引き取り墓に納めた。日が暮れると安息日、葬りの営みができなくなるからだ。そして安息日が明け、さらに翌朝の夜明けまでの一日半、人々はイエスの死を悼み過ごしていた。大地は嘆きに包まれ、人々は歌を忘れ、音が鳴りやみ沈黙が世界を覆った。もう夜明けは二度と来ないのかもしれない… そんな嘆きの夜をまんじりともせずに過ごしていたことだろう。
しかしそれでも時は流れ、東の空に夜明けが訪れる。女たちは夜が明けるとすぐ、墓に向かった。金曜日の夕方、急いで墓に納めたので葬りの準備をきちんとすることができなかった。「だから、せめて香油を…」との思いで墓に出かけた。
すると… 続きを読む »
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2017年04月09日
2017年4月9日(日) 棕櫚の主日
哀歌5:15-22,マタイ27:32-50十字架上でイエスが残された言葉が各福音書に記されている。最も威厳があり堂々としているのがヨハネの記述だ。「わたしは渇く」と言われ、ぶどう酒を受けると「成し遂げられた!」(旧聖書では「すべてが終わった」)と語って息を引き取るイエス。まるで神ご自身が十字架にかかられた風情だ。
多くの感動を与えられるのがルカ福音書。イエスを十字架につける人々を見ながら「父よ、彼らをお許し下さい。何をしているのか知らないのです」ととりなしの祈りをささげ、「父よ、私の霊を御手に委ねます」とつぶやいて事切れる。最後の最後まで人を赦し、神に全てを委ねる姿は、感動的だ。しかしそれ故に私たちには遠い存在にも思える。なぜなら私たちはそんなに簡単に人を赦したり神に委ねたりはできないからだ。
一方、マタイ・マルコの描くイエスの最後の言葉は絶望的なものである。「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!?」そう叫んで息を引き取るイエス。これは神への抗議の言葉なのだろうか。 続きを読む »
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2017年04月02日
2017年4月2日(日)
マタイによる福音書20:20-283月末に、イムさん母子にお世話になって、韓国・ソウルの延世大学にある尹東柱の記念館を訪ねてきた。戦時中日本植民地時代に同志社大学に留学、当時使用を禁じられていたハングルで詩作をしたために治安維持法違反に問われ、27歳で獄死したクリスチャン詩人。戦後、その作品が発見され「抵抗の詩人」として韓国では誰もが知る存在である。私は尹東柱の詩のいくつかに曲をつけて歌っている。いつかは訪ねたいと思っていた念願の地を訪れることができた。
尹東柱の生涯を見て思うこと、それは「生き延びることよりも生きることを選んだ人」ということだ。生き延びる道はあった。ハングルでの詩作などしなければよかったのだ。お上の言うことに逆らわず、朝鮮民族の悲しみなど「関係ない」と流して、日本語だけを用いておとなしく勉強しておれば、逮捕・獄死することもなかっただろう。しかしそれは彼にとっては生きながらにして死んでるようなもの、「本当に生きる道」ではなかったのだ。 続きを読む »
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