2016年9月18日
箴言3:13-20, ローマ11:33-36
「ご縁があって…」という言葉は、多くの日本人に血肉化されている。目に見えない結びつきを表す言葉で、元は仏教の用語だが、クリスチャンの方でも使う人が多い。私は意識的に使わず、「神の御心によって」と言い換えることにしている。では私たちにとってその「神の御心」とは何か?それはなかなか答えにたどりつけない問いである。
「すべてのものは神から出て、神よって保たれ、神に向かっているのです」とパウロは語る。すべての出来事は神の御心によって起こっているという意味だが、この言葉を私たちはなかなかすんなりと受けとめ切れない。例えば阪神大震災や東日本大震災の時に、「いったいこの出来事のどこに御心があるのか!」と思った人は多いだろう。「すべての出来事は神の御心によって起こる」といった素朴な思いは粉々に打ち砕かれてしまう。
ドイツ文学者の小塩節氏は、生後3ヶ月ご子息が肺炎で死の宣告を受けた時「この子の命を奪うのが神の御心ならば、御心のままにされては困る。もし神が現れたら登山用のピッケルで打倒そうと思った」と記しておられる。わが子の命を何とかして守ろうと願うこの思いは、決して「不信仰」ではないと思う。
はたしてパウロは「箸が転んだのも神の御心」といった、底の抜けた一方的な運命論を語っているのだろうか?少し前の所に「誰が神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記している。「神の御心は誰にも分からないのだ…」一方でパウロはそう述べる。
しかしだからと言って、神の御心を尋ね求めることは無意味だ、そんなことはしなくてよい、というのではない。私たちは神の御心の全てを知ることはできないが、「それはある」と信じることができる。その思いを抱いて求め続けることが大切だ… そんなことを示しているのだと思う。その時にはみこころが分からなくても、あとで振り返って気付けるようになる… そんな道のりもある。
いったい、「神の御心を求める」とは、どんな営みなのだろう?「私たちにはそれは分からない」それが出発点である。しかしそれでも求める、知ろうとする。そうすることによって自分の視点以外で世界を見ることができ、だんだん、じわじわ心に沁みてくる。分かったように思えてくる。でも少し経つと(特に苦しみや悩みを経験すると)、また分からなくなる…そんな風に「ぐるぐる回っている」、そのような営みを重ねながら、浮いたり沈んだりしていくこと。それでいいのではないか。
信仰を持てば神の御心が示されて、人生が劇的に変わる… 多くの人にとってそういうことはなかなか起こらないかも知れない。しかし「それでも神の御心を求め続ける」。そのような思いを抱いて生きる姿は、そうではない生き方と比べて、明らかに何かが違ってくる。