マルコによる福音書16:1~8(4月20日 イースター礼拝)
「神の子が、十字架にかけられて殺される。」― それはあり得ないことだった。あってはならないことだった。そのあってはならないことが現実に起こってしまったのが、イエス・キリストの十字架である。
イエスにはその道を避けることもできた。当時の宗教エリート、すなわち律法学者やファリサイ派、祭司たちに対してはあまり関わらず逆らわず、自分のもとに集まる支援者たちに囲まれて、ささやかな祈りの生活を求めたならば、あのようなむごい最期を迎えることはなかったであろう。
しかしイエスはそうしなかった。神の愛を語るにしても、徹底してそれを語り、神の国の福音に反するようなあり方に対しては、それが時の権力者であっても容赦なく批判の礫を投げられた。だからあのような形で命を最期の時を迎えねばならなかったのだ。
はたしてイエスは、鋼のような意志でそのような道を歩まれたのか?そうではない。内面には恐れや葛藤、不安もあった。それを表しているのがあのゲッセマネの祈りである。「できることならこの盃(十字架の運命)を取り除けて下さい。」イエスはそう祈られた。
しかしそれに続いて「けれども、私の思いではなく、みこころが行われますように。」イエスはそう祈り、十字架に向けて歩まれた。そして人々から罵られバカにされ、頼りの弟子たちには見捨てられ、最後は断末魔の叫びを天に向けながら息をひきとられた。世界中の絶望が集まったような、痛ましい最期だった。
神の愛を伝えた救い主が、権力者によって捕えられ十字架にかけられて「ハイ、おわり」だったとしたら?もう誰も神の愛など信じようとしないだろう。もう誰もイエスのような生きざまを目指そうとはしないだろう。しかし、その絶望のどん底・虚無感の極みの中から、聖書のメッセージが響いてくる。「まだ、終わっちゃいない」と。
聖書の物語の中には、絶体絶命の土壇場から、神が新たな救いを始められる出来事がいくつも記される。出エジプト記の『海の奇跡』もそのひとつだ。エジプト軍に追われ海辺に追い詰められたイスラエル。「もう終わりだ。」とあきらめかけた人々を、海の中に道を開き救いへと導かれた物語である。
イエスの十字架の後、女性たちは墓に向かう。「もう終わってしまった。」そんな思いを抱きながら。しかし彼女たちが墓で出会ったのは、「終わった」イエスのなきがらではなく、「あの方はここにはおられない」と告げる御使いの言葉であった。
究極の神の愛に生きられたイエスのいのち。それは「まだ終わっちゃいない」。それがイースターの喜びの知らせである。