2016年10月2日(日)
ヨハネ福音書11:28-44(10月2日)
先日の日曜日、夫婦そろって寝過ごしてCSに遅刻してしまった。いつもより暗い朝、目覚ましのかけ忘れ、前日の夜更かし…いろんなことが重なって失態をさらしてしまった。モモ伝道師が何度か声をかけてくれて何とか目覚めたが、最初静かな牧師館で「ニャー」とネコの声だけが響いていた時には、「盾さんたち、死んでるんじゃない!?」と不安になったという。「シマッタ!」と起きてからは、あわたしくバタバタと主日の朝が始まっていった。
夜の眠りから朝の目覚めへと向かう営みは、死からの復活に似た経験だと言えるかも知れない。意識のない状態から、ものを考え、感じ、行動する状態へと移る。静から動へ。朝の目覚めを「朝ごとに新しく生まれる」そんな風に迎えることができたら、どんなに幸いだろう。しかし現代人は大抵余裕がなく、「早く起きなきゃ!」とあわただしく始まる朝が多いのではないか。
キリスト教は、復活を希望をもって信じる宗教と言えるだろう。それは言うまでもなく、イエス・キリストの復活の出来事が私たちの信仰の出発点だからだ。死者の復活 ― それは私たちにとって「あり得ない」と思える不思議な出来事であり、だからこそ人知を超えた神の力をそこに感じるのである。
しかし、聖書の時代の人々にとって、もちろん不思議な出来事ではあったが、現代に生きる私たちほど「あり得ない」ものではなく、「しばしば起こり得る」出来事としてとらえられていたのではないだろうか。というのは、新約聖書にはイエスの復活だけでなく、他にもいくつか死者の復活の出来事が記されているからだ。(ヤイロの娘=マルコ5章、エウティコ=使徒言行録20章、十字架の際墓から出てきた「聖なる者たち」=マタイ27:51)
今日の箇所はそのひとつ、「ラザロの復活」の場面である。姉のマルタからラザロの重病のことを聞き、その元へ向かうイエス。しかしイエスが到着する前にラザロは死んでしまった。イエスが着いてみるとラザロは墓に納められ、穴は石でふさがれてしまっていた。
イエスは「石を取りのけなさい」と言われたが、マルタは「もう4日も経っており、においもし始めています」と答えた。イエスは祈りを唱え、「ラザロ、出てきなさい」と言われると、ラザロは手や足を布で巻かれたまま起き上がった…。もしあなたがこの場面に遭遇していたら、どう感じただろうか?「喜び」とか「感謝」といった感情よりも、むしろ最初に抱くのは「恐怖」という感情ではないか。
ひとつ気になることがある。このあとラザロはどうなったのか?ということだ。少し後の所には、ラザロはイエスと共に祭司長たちから命を狙われるようになったことが記されている。さらに、伝承によると彼は宣教者となり、キプロスやマルセイユで活動したという。ラザロにも「その後」の歩みがあった。しかも、イエスと共に命の危険にさらされつつ、その運命を呪うどころか、宣教の働きを担うひとりとなっていったのだ。
ラザロは死からよみがえった。それは確かに驚く出来事だが、それだけのことだったなら、それは私たちとは関わりのない事柄だ。しかしラザロはイエスによって新しく作り変えられ、新たに歩む者となった。それこそが「奇跡」であり、私たちにとっても意味のある「驚くべき恵み(Amazing Grace)」として迫ってくるのである。