民数記13章、第2コリント4:7~18(4月27日)
私たちが大胆になれる時、それはどんな時だろうか?自分に自信があり何とかできるという確信がある時、大胆になれる…ふつうそう考える。しかしそのように自分の力に頼ることが、私たちから大胆さを奪うこともある。
あるカリスマCMディレクターが語っていた。「プレゼンテーションでは『勝たねばならない!』と考えないようにしている」。勝とうとすると、思い切った提案ができず、慎重さを求めるあまり無難で凡庸なプランに収まってしまうからだそうだ。
民数記の物語にも、慎重派と大胆派の姿が描かれる。今まさに神の約束の地、『乳と蜜の流れる地』カナンに向かおうとするイスラエル。モーセは12人の偵察隊を送り、現地の様子を調べさせる。戻ってきたうちの10人は、「かの地の民はとても強そうで、私たちはとても勝てません。無理です。」と報告する。「自分たちの力ではとても道は開けそうにない。」― そのように考えた慎重派、無難路線の提案である。
しかしヨシュアとカレブの二人は違った。「大丈夫です。勝てます。今こそカナンに向かいましょう。」大胆派の提言である。いったい彼らを大胆にさせたものは何か?自分たちの力への確信(過信?)だったのだろうか?そうではないだろう。彼らとてイスラエルの非力はよく分かっていた。しかしこの旅路は神が約束して下さったものだ ― そのことへの信頼が彼らに大胆さを与えたのではないか。
パウロは「神の大いなる力が“土の器”である自分たちに納められている」と語る。だからどんな困難な中でも希望を抱くことができるのだ、と。イエス・キリストも、あの無力と弱さの極みのような十字架の死から復活されたではないか。だから私たちは落胆しないのだ、と。
このパウロの大胆さは、自分の力に依り頼もうとする人の大胆さではない。むしろ自分の弱さをきちんとわきまえた人、そして「にもかかわらず」その弱さの中に働く神の力を信じる人こそが持つ大胆さである。
『東北ヘルプ』のK牧師は、「被災地において宗教者が果たすことのできる働きは、無力な姿をさらすことではないか」と語られる。「なす術のない」状態においてはあらゆる有能な働きは不要になる。そんな時こそ祈りが求められる、というのだ。「弱さをさらす宗教者。その現場において様々な隔ての壁は崩れ去り、そこに『キリストの平和』を見出すのです」(『信徒の友』5月号)。
パウロは「わたしは弱い時こそ、強い」と言った。この大胆さこそ、信仰の恵みである。そう信じよう。