『 生け贄は人を救うのか 』

2016年10月9日(日)
士師記11:29-40,ヨハネ11:45-54

「生け贄」という言葉を聞いて、私たちはギョッとする印象を抱く。多くの日本人はこの言葉を呪術的で少し薄気味悪いイメージをもって受けとめるだろう。しかし、古代イスラエルの人々にとって、それは宗教的な儀礼の内容であり、人間の救いにとってある種の前提となる事柄なのである。

律法の書であるレビ記の冒頭は、生け贄の献げ方、そのマニュアルである。自分たちにとって大切な財産であり家族であった家畜を生け贄として献げる。それと引き換えに罪の赦しを与えられるという儀式なのである。そういう文化を背景に持つ聖書の物語の中には、私たちにとって不可解に思えるものが存在する。

今日の旧約の箇所、士師記の「エフタの娘」の物語はその最たるものと言えよう。士師・エフタはアンモン人との戦いに臨むに際し、神に誓願を立てる。「神が勝利を与えてくれたら、私が戻った時にわが家から最初に出てきた者を生け贄として献げます。」はたして戦勝に際して家から最初に出てきたのは、彼の娘であった。エフタは悲しみつつ、最愛のひとり娘を生け贄として神に献げた…。

どうしてこのような誓願を立てたのか、また、なぜ約束通り娘を生け贄としたのか。私たちには本当のところ理解できない。長らく宗教儀礼の中で生け贄を献げ続けてきたイスラエルの人々の価値観が背後にあるのかも知れない。ただ、想像できることは、ユダヤ人たちにとってみても、これは決して「気持ちの良いお話」ではなかっただろうということだ。

ところで「罪の赦しのための生け贄」のことを「スケープ・ゴート(身代わりのヤギ)」と称する。その昔遊牧民の時代、家畜の群れを率いていて狼などに襲われた際に、雄の老ヤギをやむを得ず犠牲にして他の群れを逃がす方法が取られたことに由来する。それが転じて、誰かひとりを犠牲にして他の者が難を免れようとする発想を指す言葉として用いられる。今日の新約の箇所で、イエスと対立していた大祭司・カイアファが言った言葉、「あの男(イエス)が民の代わりに死に、国民全体が滅びない方が、好都合ではないか。」ここにスケープ・ゴートの発想がある。いかにも悪知恵の立つ、自己保身の固まりのような男が言いそうなセリフだ。

しかし福音書記者ヨハネは、その発言はカイアファの人間的な言葉ではなく、神による預言であると解釈する。これから起こるイエスの十字架の苦難の出来事。それは神が世の人を救うために備えられた出来事だと言うのだ。そこには「イエスの十字架による罪の贖い」というキリスト教の贖罪信仰の教義が反映している。「あぁ神はそのようにしてまで、世の人を救おうとして下さった。ご自分のひとり子を生け贄にして世の人々の罪を赦して下さった。ハレルヤ!」ヨハネはそんな思いを抱いて、この福音書を世に表した。

私たちはそのヨハネのメッセージをどう読み、受けとめればよいのか。「あぁおいたわしや、ありがたや…」と感謝して受けるだけでいいのか?

想い起こしたいことがある。勝利の約束と引き換えに、わが娘を生け贄として献げたエフタの思いだ。エフタの抱いたその悲痛な悲しみに思いを馳せたい。そしてその同じ思いを、世の人の救いのためにひとり子を生け贄として世に遣わされた神さまへの思いへと向けること。それが「十字架の贖罪」のメッセージを受けとめる時に大切なことなのではないか。

どんなにうれしい勝利や救いの出来事も、それが誰かの犠牲の上に成り立っているならば、決して手放しでは喜べない。このことに気付いた者は、二度とそのような犠牲が生まれない歩みを目指すはずだ。

「生け贄は人を救うのか?」という問いにどう答えるか。私たちはこう答えたい。生け贄そのものが呪術的な力で人を救うことは「ない」。そうではなく、生け贄を献げざるを得ない現実、それをいたたまれない思いで受けとめ、悔い改める心、それが人を救いへと導くのだ。

 

「もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません」(詩編51)