2016年11月6日(日) 召天者記念礼拝
創世記13:14-18、ガラテヤ3:7-11
130周年記念講演会(対談)の中で、日本にキリスト教が根付かない理由の一つとして、「祖先崇拝を認めないことがあるのではないか」という話題になった。戦国時代のキリシタンの宣教師に「ご先祖様を置いて自分だけ天国に行くわけにはいかない」と拒んだ人がいるという。しかしこのような祖先崇拝的な価値観は仏教にもなく、日本古来の民俗信仰に基づくのだそうだ。
確かにキリスト教には日本的な祖先崇拝(お彼岸・お盆の霊帰り)の考え方はない。死者を神として崇めることもしない。どちらかというと死者は神のもとで眠っておられる…、すべて神さまにお任せ…、そういった受けとめ方が多いであろう。けれども、キリスト教やその母体であるユダヤ教が先祖に無頓着か、というとそうではなく、向き合う作法が違うということなのだろう。
旧約聖書の古層の箇所で繰り返される言葉がある。「○○は寿命を全うして息を引きとり、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」。アブラハムも、イサクもイシュマエルも、ヤコブもそのような言葉で人生の最後が記される。「死んで先祖の列に加えられた。」そこにはある種の充足に満ちた死生観が感じられる。聖書は聖書で先祖とのつながり、死者との向き合い方を大切にしてきた。
ユダヤ教の始まりは、神がアブラハムという人物を選び、契約を交わし、祝福を与える約束をしたことに始まる。それ以後、アブラハムの血統と信仰を引き継いできたのがユダヤ人たちである。われらのイエスもまた、ひとりのユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として人生を歩まれた。
「神の祝福は、アブラハムの子孫に、即ちユダヤ人だけに与えられる」と長く信じられてきた。ユダヤ人以外の人がその祝福を受けるには、割礼を受けてユダヤ人になることが求められた。そんな神の祝福のひとり占め状態に、「独占禁止宣言」を下したのがパウロである。
神の祝福、神の赦しは、ひとりユダヤ人の占有物ではなく、イエス・キリストを信じる人ならば異邦人を含むすべての人に与えられるものであるというのだ。今では当たり前のことに思えるが、この時代にはかなり思い切った発言であったことだろう。
いったい誰が、祝福を約束された「アブラハムの子」なのか。それを決めるのは血統ではない。それを決めるのは信仰だ… パウロはそう言い切った。「だから信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」(ガラ3:7)
今日は召天者記念礼拝。この日にパウロのこの言葉を心に留めたい。葬儀や記念会といった死者に関する儀礼、それを主体的に行なうのは家族、即ち血統のつながりを持つ人々である。確かに家族の絆は大切だと思う。しかし血統の結びつきだけを大切にするのではなく、一方ではそれぞれの故人を支え導いた信仰をも大切に受けとめ、引き継いでゆきたいと思うのである。
(召天者記念礼拝)