2016年12月4日(日)
イザヤ59:12-20、ローマ16:25-27
牧師の息子として教会で育った私は、キリスト教のいいところも、イヤなところもいろいろ感じながら生きてきた。キリスト教の「イヤだなー」と思うことのひとつに「人をすぐ罪人扱いすること」があった。たとえば「人間は皆神さまの前に真っ黒な罪人です…」と決めつけるように語られることに対して、「夕陽を見てきれいだと思ったり、小さな子どもを見ていとおしく思ったりする心も『真っ黒』なのか!?」と内心で屁理屈をこねる子どもだった。
しかし歳を重ね、大人になるに従って、自分にもいろんなずるさや邪悪さが潜んでいることを感じるに至り、聖書の人間理解が実は深い洞察の中から生まれていることを知るようになった。そこで初めて私は、自分の罪・過ちを、人から言われて(決めつけられて)ではなく、自分自身の思いの中で認めたのだと思う。
キリスト教・ユダヤ教は、「人は神の前に罪人である」という前提から出発する。アダムとエバの物語がそれを示すが、子どもの頃は不思議に思ったものだ。「神はなぜ取って食べてはいけない木を作ったんだろう?そもそも、なぜ神は人間を、罪を犯さない存在として作らなかったんだろう?」と。しかし自分の罪に気付くようになってからは、「神は人間を、ご自身の操り人形として作られたのではない。『罪を犯す自由』をも持つ存在として作られた。そしてその罪を乗り越える道を目指すために、道徳や倫理や宗教が与えられたのだ」と考えるようになった。
バビロン捕囚直後の混乱と憔悴の中で活動した預言者・第3イザヤは、捕囚の苦しみはイスラエル(ユダ王国)の人々が神のみこころに従って歩まず、罪を重ねたことへの報いだったと語る。しかし彼は「裁きの預言者」ではない。厳しい批判的な言葉を連ねた後、彼は「主は贖う者としてシオンに来られる。」と語る。
「贖う者」とは対価を払って負債を赦したり奴隷を買い戻したりする人のことである。神への背きが原因で捕囚という大きな苦しみを背負わねばならないイスラエルではあったけれども、神はその負い目を赦し屈辱の中から買い戻すために、即ち罪を赦すために来られるとイザヤは告げる。これは「神はそれでもさが民を見捨てられない」という宣言である。
神は、一方では厳格な親のように、子どもの過ちを決して見過ごさず、厳しくそれを叱り戒められる。しかし一方では、そのどうしようもないわが子を、それでも見放さず、悪から離れて生きるようにと見つめ続ける親のような存在でもある。そのような神の姿を指し示すために、イエス・キリストはこの世に来られた。
この世界には、人間のどうしようもない悪や罪が満ち満ちている。しかしそんな世界のただ中にイエスは来て下さった。それは「神はそれでもこの世界を見捨てられない」ということを示すためだったのだ。イエスと神の思いに少しでも応えよう。