2016年12月25日(日)クリスマス礼拝
イザヤ書9;1,5-6 ルカ2:1-16
ユダヤの民が長く長く待ち望んでいた救い主の誕生、その降誕の地は小さな町・ベツレヘム、しかも家畜小屋だったとルカは伝える。幼な子が生まれる場所としてはふさわしいとは思えない、弱く貧しい中に救い主はお生まれになったと告げるのである。
なぜそのような環境であったのか。ヨセフとマリアは旅をしていて客間に泊まれなかったからだ。臨月で旅をする。尋常なことではない。それは人口調査をせよとの皇帝の勅令によるものだった。何のための人口調査だろう?古代よりこの種の調査の目的は大きく分けて二つ、一つは徴税のため、そしてもう一つは徴兵のためである。
現在日本で進行中の「マイナンバー制度」にも同種のきな臭さを感じてしまう。民衆の側からこのような動きが出ることはない。権力者がそれを命じるのであり、庶民はこれに振り回される。そんな境遇の中で、イエスはお生まれになったのだ。
その救い主の誕生を、一番最初に告げられたのは、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いだったと記されている。CSのページェントでは微笑ましい光景として演じられたりもするが、実際の彼ら羊飼いを巡る状況は決して「かわいらしい」ものではなく、過酷で厳しいものだった。羊のオーナーに雇われて、羊たち、つまり生き物の世話をする。糞尿や泥にまみれるその仕事は、人々から忌み嫌われていた。そして携わる彼らもまた、蔑視の対象であった。
ヨセフとマリアは人口登録のための旅をしていたが、羊飼いたちは旅をしていなかった。彼らは登録をしない、する必要のない人々だった。いわば「数にも入れてもらえない人々」だったのだ。日本にもかつて「士農工商」という制度があったが、その構造から外れたところに置かれた被差別部落の人々がいた。彼らに対する差別があり、今も形を変えて残っているのが日本社会の残念な現実だ。羊飼いの境遇はそのような「社会から打ち捨てられた人々」だった。
そんな打ち捨てられた者たちに、救い主の誕生が真っ先に知らされる。それがルカの示す神の救いの到来だ。そしてそのことはそのままひるがえって、彼らのような人々を打ち捨ててしまう社会や私たちのあり方、職業や民族や、性別や性的志向で人を差別してしまうありように対する、はっきりとした「否!」の宣言なのである。
本当なら「打ち捨てられた人」などひとりもいないのが目指すべき世界、神の国だ。しかし残念なことに私たちの社会はそのような人を今日も生み出してしまう。だからこそ私たちは、クリスマスの喜びが真っ先に届けられるべきところはどこか、そのことを常に思い巡らせながら、今年もこの時を過ごそう。