『 喜びのその陰で 』

『 喜びのその陰で 』
2017年1月1日(日)
エレミヤ31:15-17,マタイ2:13-23

今年は暦のめぐりで、一週間前がちょうどクリスマスの主日だった。多くの人々と共に喜びの礼拝をささげ、洗礼式・転入会式の恵みを受け、感謝の祝会を過ごした。そして一週間たった今日は元日。クリスマスとはまた別の意味で祝いの時、喜びの季節である。

しかし、私たちがそのように喜びを抱いているこの同じ時に、悲しくつらい思いを抱いて生きている人もいる… それがこの世界の現実である。内戦から逃れてさまよう難民たち。戦火に巻き込まれて命を脅かされる人たち。災害や大火災で家や財産を失った人たち。貧困、病気、差別により、今日を生きる希望すら抱けない人たち…。そんな人の存在を忘れないようにしたい。

夭折の詩人・金子みすゞの作品にこんなものがある。「朝焼け小焼けだ大漁だ / おおばいわしの大漁だ / 浜はまつりのようだけど  / 海の中では何万の / いわしのとむらいするだろう」自分たちの喜びの陰にあるもうひとつの出来事に目をむける「もうひとつのまなざし」。その大切さを静かに語りかける言葉である。

今日の箇所はイエスの降誕物語、その喜びの出来事に暗い影を落とす残虐な事件についての記録である。マタイの伝承では幼な子の誕生を聞いて、星に導かれた三人の学者(博士)が登場する。彼らは最初、ヘロデの元を訪ねた。新しい王が生まれた ― それはきっと王家のゆかりの地であろうと考えたからだ。

しかし彼らの来訪はヘロデの内心に不安を与えた。自分の位を取って代わる人物の出現を恐れたのである。それでベツレヘム周辺一帯にいた2歳以下の男の子を皆殺しにするよう命じた。しかし、ヨセフとマリア、そして幼な子イエスは、神のお告げによってエジプトに移ったので難を逃れた…。

かつてこの箇所について、こんな注解を読んだことがある。「かかるヘロデの蛮行も神の子には及ばなかった。神は聖家族を守られた。何と偉大な神のご計画!」…。「めでたし、めでたし…」と思われるだろうか?私は「冗談じゃない!」と思った。イエスが生まれたために、理由もなく殺された子どもたち、その家族の思いはどうなる!? と憤りを感じた。

マタイはこの幼児虐殺の出来事は、エレミヤの預言が実現したものだと記す。「ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」(エレミヤ31:15)

ふと思うことがある。イエスはこの出来事を知っておられたのだろうか。きっと知っておられたに違いないと思う。自分が生まれたために殺された、無辜なる子どもたちがいたこと、その家族の悲しみがあったことを…。そしてそのことを自分の責務のように感じながら心を育てていかれたのではないかと思うのだ。そのことが、あのイエスの「打ち捨てられた者を訪ね慰める」そんな生き方につながっていったのではないだろうか。喜びのその陰で泣いている人がいる… その事実を見つめる「もうひとつのまなざし」。それはまさにイエス・キリストのまなざしだ。

先にマタイが引用したエレミヤの預言の言葉には続きがある。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」(エレミヤ31:16-17)この言葉に希望を託したいと思う。

2017年、新たな年、今年も神が与えられたいのちを喜び祝う歩みが、ひとりひとりに与えられることを心から願う。そう、神はそのようなものとして私たちに命を備えて下さった。そして、その「いのちを喜び祝う道」を開くために、イエス・キリストは来て下さった。しかし、だからこそ私たちは、喜びのその陰で泣いている人がいる ― そのことを見つめるもうひとつのまなざしをも自らの内に忘れることなく、歩みを重ねてゆきたい。

(2017年 新年礼拝)