『 神のおられるところ 』

2017年1月29日(日)
創世記28:10-22、マタイ21:12-16

吾妻教会の望月牧師から、印象的な話を聞いた。早朝、教会の牧師館に新聞を届けに来る配達員の足音が、しばらく途切れる瞬間がある。ある日気になって覗いてみたら、真っ暗な中ライトアップされた教会の十字架に向かって、手を合わせて祈っておられたという。「人知れず、誰も見ていないのに祈る姿に、祈りの原点を見させていただいたような気がした。」そこには「神のおられるところ」に対するリスペクトがある。

イエスは、人に見せるためにこれみよがしに祈る人の姿を批判された(マタイ6:5-6)。靖国神社に集団で参拝する国会議員たちの姿を思い起こす。もちろん国会議員にも信教の自由はある。しかし「神のおられるところ」に対する敬意が少しでもあるなら、あのようないびつな祈る姿は生まれないのではないか。あの新聞配達の人のように、誰も見ていないところで、一人で静かに祈るのではないだろうか。

私たちは、自分の感性で「神のおられるところ」と感じられる場所に向かって祈りをささげる。しかし私たちは、いつも常にそのことを知っているわけではない。「神のおられるところ」に気付いていられるわけではない。

ヤコブは、エサウの怒りからの逃れる旅の途中、荒野で野宿をした。誰もいない人知れぬ場所で石を枕に寝ていたヤコブは、神の天使が天地を行き来している場面に出会う。その時ヤコブは言った。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」。逃亡の旅先、頼るものが何もない弱さの中、「まさかこんなところで」と思う場所で、彼は神様との不思議な出会いを果たす。

新約の箇所は、私たちにとって少々ショッキングなイエスの神殿粛清の場面である。イエスが暴力を振るわれた唯一の箇所だ。イエスは何を怒っておられるのか。「両替人の台・鳩を売る者の腰かけ」という言葉が神殿の状況を物語る。外国の貨幣を献げようと思っても「汚れている」から両替しなければならない… どんなに貧しい者でも「鳩のいけにえ」を用意しなければ、神殿で祈ることができない… そのような神殿の姿をイエスは「強盗の巣」と断じられたのだ。

エルサレムの神殿。誰もが「ここに神がおられる」と認める場所。しかしイエスは、人々のその「当然の思い込み」を激しく揺さぶられる。「本当にそうなのか?よく考えろ!」と。

私たちの教会は、「神のおられるところ」だろうか?「そうであって欲しい、そうでありたい」と思う。しかし「当然そうだ、そうであるべきだ。」という思い込みは見つめ直すことが大切だ。

ステファノは言った。「いと高き方は、人が造ったようなものにはお住みになりません。」(使徒7:48) 「神のおられるところ」― それは立派な建物でも、権威ある装飾でも、パワースポットでもない。「人知れず祈る」そんな心を持つ人が集まるところ、いと小さき者をないがしろにしないで共に生きようとするところ、それこそが「神のおられるところ」だと信じたい。