『 民族の垣根を越えて 』

2017年2月19日(日)
マタイによる福音書15:21-28

外国人排斥(特にイスラム教徒)を主張し、「アメリカ・ファースト!」を声高に叫ぶ米大統領の姿を、世界中の人々が批判している。かの大統領本人もさることながら、それを支持する人が大勢いることが心配だ。人類が長い間かけて積み上げてきた「人種差別はよろしくない(のではないか)」という「常識」が、簡単に吹き飛ばされようとしている。

日本も例外ではない。大都市部を中心にヘイトスピーチを行なう人々の姿が増えてきているという。民族の垣根を根拠に、人と人が対立し差別し排除し合うという、いやーな時代に向かっていることを危惧する。

今日の聖書の箇所は、そんな心配を抱く私たちにとって、大変心外な悩ましい箇所である。あろうことかイエスが民族の違いを理由に救いを求める人の願いを拒まれた… いわばイエスが民族差別をされた、と受け止められかねない箇所だからである。

イエスの元へやってきて、娘の病気を癒して欲しいと願い出る母親に対して、イエスはこう言われたと記されている。「私はイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と。この母親はカナンの女、すなわち異邦人であった。

子どもたち=イスラエル、パン=救い、小犬=異邦人、そんな図式が浮かび上がる。「私はイスラエルの人のためだけに来た。異邦人はダメだよ。イスラエル・ファースト!」はたしてイエスがそのようなことを言われたのだろうか。

この見解に真っ向から反論するのが聖書学者の田川健三だ。並行箇所のマルコを見ると「イスラエルの失われた…」云々の言葉が記されていない。「子どもたちのパンを小犬にやるのは…」という言葉は記されている。そのマルコの箇所に、ユダヤ的選民意識の強いマタイが「失われた羊」の言葉を付記したのではないか、というのだ。

では、「子どもたち、パン、小犬」のたとえは何を意味するのか。マルコの直前の箇所では「(イエスは)ある家に入り誰にも知られたくないと思っていたが、気付かれてしまった」という記述がある。それは、「あまりにも疲れていて、少し休みたかったからではないか」と言うのである。ところが女に気付かれてしまった。そこでイエスは「子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と言われた… これが田川説である。

するとあの譬えはどうなるか。子どもたち=イエスと弟子たち、パン=休息、小犬=母親、そのようにも受けとめられる。「今はちょっと休ませてほしい」… 毎日緊張と疲労の連続のイエスにとって、そんな思いを抱かれる時もあったのではないだろうか。イエスは異邦人差別などしておられなかったのだと思う。

マタイのように「まず自分の民族を第一に!」と思う気持ちも分からないでもない。そのような思いは形を変えれば誰の心の中にもある。「民族」という言葉を、「わたしの子ども」「わたしの家族・親族」「わたしの地域」「わたしの会社」「わたしの教会」と置き換えれば、誰にも思い当る節があろう。それは人間として自然な感情とも言える。しかしそれが自己中心的な思いと結びつくと、差別という感情の源にもなり得るということに自覚的でありたい。

神は「まずイスラエル、イスラエル・ファースト!」などというケチなお方ではない。神はすべての民族を救うためにイエス・キリストを遣わされた。そのことを信じ、私たちも民族の垣根を越えて生きる尊さを求め続けたい。