『 聞いて下さい、わたしの呻きを 』

2017年3月26日(日)
哀歌1:20-22、ローマ12:9-18

悲しみ・痛みを感じる体験、呻きをもらしてしまう体験、それは誰の人生にも必ず訪れるものだ。しかし教会ではそのネガティブな感情を耐え忍び、「それでも神に感謝する」ことが美徳である… そんな受けとめ方をしてきた一面があるのではないだろうか。

教会の礼拝が、いのち与えられたことを感謝し喜びを表す時であることは論を待たない。キリスト教会が日曜日に礼拝をするようになったのは、それがイエス・キリストの復活を喜ぶ日だからである。教会の礼拝は基本的に、そのような「ハレの日」である。

しかしそのような礼拝のたたずまいが、私たちが一方で抱く悲しみ・苦しみ・嘆きの感情を蔑ろにするならば、それはよくないことだ。実際の人生で味わう別離・病気・疎外・虐待・差別… それらのものが「まるでなかったかのように」喜びです!感謝です!と言わなければならない教会だとしたならば、私たちはその状況に長くは耐えられない。むしろ時には悲しみをしっかり悲しむ、嘆きの湖の底に沈む、そんな経験も私たちの信仰には必要なのではないか。

ある牧師が雑誌のインタヴューに応えて、ご自身が留学から帰ってきた時、子どもさんが原因不明の体調不良により入退院を繰り返すようになった体験を語っておられた。「自分のせいで…」と夫婦して自らを責めた日々…その時の体験を振り返って、「留学先で嘆きの詩編やエレミヤの哀歌の研究をしていて本当によかった。あの時、神に向かって嘆きの声を挙げる聖書の言葉を知らなかったら、立ち直れなかったかも知れない」と記しておられた。

詩編のかなりの割合は「嘆きの詩編」である。エレミヤの哀歌に至っては、バビロン捕囚の苦しみ・嘆きを全編通して呻いている内容だ。留学先の指導教授はこれらの聖書テキストを取り上げて「嘆きや悲しみの感情を抑圧してはならない。深い悲しみにこそ預言者的想像力は働く」と言われたという。この一文を読んで、私は星野富弘さんの詩の言葉を思い出していた。

よこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする
(中略)
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛に近いような気がする

イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか!」と叫ばれた。神に向かって恨みとも呻きとも取れる言葉を吐き散らす… それは不信仰なことだろうか?いやむしろ、それはイエスが神に最も近付いた瞬間だったのかも知れない。幼い子どもが母親に悪態をつく時こそ、母の愛を最も強く求めているように…。

苦しみ・嘆きの中で、それでも神を恨まず感謝の祈りをささげる… そのような信仰は確かに「立派」である。しかしそれは、そうすることによって自らを神から遠ざけてしまうふるまいなのかも知れない。時には嘆く時があっていい。切なる思いを神にぶつけてゆく…。そんな時があってもいいのではないか。

先の牧師はインタヴューの最後にこう述べておられた。
「嘆きは時にひとを孤立させる。しかし同時に悲しみは、信仰共同体の中に確かな居場所を持ちうることを、私たちの聖書は教えてくれているのです。」

 
「聞いて下さい、わたしの呻きを…」
その思いが、その体験が、いつしか同じように嘆きを抱く他者への共感を育ててくれる。「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」そんな交わりへと私たちを導いてくれる。そのことを信じよう。

(レント賛美礼拝『嘆きの礼拝』)