『 たとえ杯は苦くても 』

2017年4月2日(日)
マタイによる福音書20:20-28

3月末に、イムさん母子にお世話になって、韓国・ソウルの延世大学にある尹東柱の記念館を訪ねてきた。戦時中日本植民地時代に同志社大学に留学、当時使用を禁じられていたハングルで詩作をしたために治安維持法違反に問われ、27歳で獄死したクリスチャン詩人。戦後、その作品が発見され「抵抗の詩人」として韓国では誰もが知る存在である。私は尹東柱の詩のいくつかに曲をつけて歌っている。いつかは訪ねたいと思っていた念願の地を訪れることができた。

尹東柱の生涯を見て思うこと、それは「生き延びることよりも生きることを選んだ人」ということだ。生き延びる道はあった。ハングルでの詩作などしなければよかったのだ。お上の言うことに逆らわず、朝鮮民族の悲しみなど「関係ない」と流して、日本語だけを用いておとなしく勉強しておれば、逮捕・獄死することもなかっただろう。しかしそれは彼にとっては生きながらにして死んでるようなもの、「本当に生きる道」ではなかったのだ。

彼の代表作・「序詩(死ぬ日まで天をあおぎ)」という詩には、詩人が自分の生き方に込めた思いが全編に表わされている。

 

序詩 (尹東柱)

死ぬ日まで 天(そら)をあおぎ
一点の恥ずることなきを
葉あいを 縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた
星を うたう心で
すべて
死にゆくものたちをいとおしまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば

今宵も 星が 風に ― むせび泣く

 
イエスもまた、生き延びるよりも生きることを選んだ人、そしてそのために十字架上であのような最期を遂げなければならなかった人だと思う。イエスにも生き延びる道はあった。エルサレムになど行かなければよかったのだ。ガリラヤで、自分のことを慕ってくれる民衆たちと心通わせながら、ささやかな祈りと分かち合いの生活をしていたならば、あのようなむごたらしい最期を迎えることもなかっただろう。

しかしイエスはその道を取らなかった。たとえそこに苦い盃が待ち受けていたとしても、苦難の道を歩まれた。なぜなら、イエスにはいのちを賭してでも守らねばならないことがあったからだ。

それはひとりひとりの人間、そのいのち・その尊厳である。その中でもいと小さき貧しき人々 ― 宗教指導者たち(律法学者、ファリサイ派)から「救われる資格のないヤツら」と呼ばれていた人にこそ神の救いを届け、そして彼らを軽んじる人々に闘いを挑むために、イエスはエルサレムに向かわれた。

それは「苦い盃」だった。勝ち目のない挑戦だった。イエスはそれを知っておられた。だから何度も弟子たちに自身の受難予告を語られた。しかし弟子はそのことばを誤解して受けとめた。ヤコブとヨハネは「栄光をお受けになる時、私たちをあなたの右・左に置いて下さい」と願い出たのだ。「自分が良い思いをしたい、特権を手にしたい」という欲望が、イエスの語る真の思いを見えなくさせてしまう…。

イエスは「あなたがたは何もわかっていない」と言われ、「私が飲む杯を飲めるか?」と問われた。ヤコブ・ヨハネは「飲めます!」と答えた。しかしイエスが実際捕らえられる時には… 苦い盃を拒み、逃げ去ってしまうのである。私たちはそんな弟子たちを笑えない。自分自身の中に、
「自分が良い思いをしたい、特権を手にしたい、苦い盃など飲みたくない」という思いがあることを否定できないからだ。

しかしそんな自分の中にも「生き延びるよりも、生きることを選んだ人」の生き様に触れて心打たれるものがある。「あぁ、こういう生き方にこそ本当に大切なものが現れるのだろうなー」そう思う心がある。その心をただひとつの拠り所として生きる道を求めてゆく。しんどいことがあってもすぐに投げ出さず、何とか受けとめようとして行く… それが私たちにとっての「自分の十字架を背負う歩み」なのだと思う。

「たとい主から差し出される杯は苦くても/恐れず、感謝を込めて愛する手から受けよう」(讃美歌469)。ナチス・ドイツに抵抗し、最後は処刑された神学者・ボンヘッファーの作詞による讃美歌である。彼もまた「生き延びるよりも生きることを選んだ人」、そのために非業の死を遂げた人だ。「恐れず、感謝をもって」というのは難しいかも知れない。しかしそれでも苦い盃を避けずに受け、本当に生きようとした人… その歩みにこそ、神の真実は宿る。そのことを信じよう。