2017年4月9日(日) 棕櫚の主日
哀歌5:15-22,マタイ27:32-50
十字架上でイエスが残された言葉が各福音書に記されている。最も威厳があり堂々としているのがヨハネの記述だ。「わたしは渇く」と言われ、ぶどう酒を受けると「成し遂げられた!」(旧聖書では「すべてが終わった」)と語って息を引き取るイエス。まるで神ご自身が十字架にかかられた風情だ。
多くの感動を与えられるのがルカ福音書。イエスを十字架につける人々を見ながら「父よ、彼らをお許し下さい。何をしているのか知らないのです」ととりなしの祈りをささげ、「父よ、私の霊を御手に委ねます」とつぶやいて事切れる。最後の最後まで人を赦し、神に全てを委ねる姿は、感動的だ。しかしそれ故に私たちには遠い存在にも思える。なぜなら私たちはそんなに簡単に人を赦したり神に委ねたりはできないからだ。
一方、マタイ・マルコの描くイエスの最後の言葉は絶望的なものである。「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!?」そう叫んで息を引き取るイエス。これは神への抗議の言葉なのだろうか。
この言葉が詩編22編の冒頭の言葉と重なるものであり、この詩編が最後は神を賛美する内容であることから、イエスは抗議しているのではなく、神を賛美しているのだ… という解釈がある。しかし私はこの解釈は無理があると思う。イエスは本当に「神に捨てられた」という思いであのように叫ばれたのではないかと思うのだ。
これまで神の御心を求めながら、病める人を癒し、悩める者を励まし、彼ら弱き者を圧迫する宗教指導者たちとは対決してきた。神の国を実現させるために身も心も献げて生きてきた… なのに、どうして!? 何ゆえに!? 私を見捨てるのか!? … しかしその叫びに神が応えられることはなかった。そう、イエスは見捨てられたのだ。少なくともこの時点においては。
大きな苦しみを背負う時、信仰を持たない人よりも持つ人の方が苦しみが深まるということがあると思う。神を信じなければ「神も仏もない、運が悪かった」そう思ってあきらめることができる。しかし信仰を持つ者は「なぜ神はこんな苦しみを与えるのか」と問わずにはいられないからだ。答えが出ない問い、出口の見えない絶望…。そんな中にひとりで捨て置かれることに、私たちは永くは耐えられない。
しかし、ひとりではないのだ。イエスもそこにいる。イエスも共にいて下さる。「神に見捨てられた人」のひとりとして。神は見捨てるかも知れない。しかしイエスは見捨てることはない。今日も世界のあちこちで、神から見捨てられたような思いの中で苦しみ嘆く人々がいることだろう。それらの人々の中に、イエスも共におられる。そしてその絶望の中から、3日目の朝が訪れるのを共に待ち続けて下さるのだ。