2017年4月23日(日)
マタイによる福音書28:16-20
共愛学園中高のイースター礼拝のメッセージを頼まれ、「つかみ」のつもりで、きゃりーぱみゅぱみゅのイースターソングを仕込んでいった。「イースター」を「いいスタート」と語呂合わせで歌う春のパーティソングである。「つかみ」としてちょっとだけ使うつもりでいたが妙にハマってしまい、全曲歌ってしまった。「新しい場所に向かって闘いを続ける」とか「変わらないものがある、それはきっと美しい」という歌詞は、聖書のイースターメッセージにもつながるものがあると思った。
先週、私たちは喜びのイースターを迎えた。イエスのいのちが十字架の上で空しく終わったのではなく、神の力によってよみがえり、新たないのちとなって信じる人を励まし導き続けてくれる。それはわたしたちの信仰の原点であり出発点である。イースターを迎える春は、私たちにとってまさに「いいスタート」の季節である。
ガリラヤの山の上でのイエスの最後の教えを伝えるマタイの記述である。「イエスの大宣教命令」とも言われ、「伝道する宗教」としてのキリスト教の特徴を特色づけた箇所の一つだと言える。確かにキリスト教は、前身にあたるユダヤ教や、異母兄弟のようなイスラム教に比べて、伝道意欲の強い宗教である。別の言い方をすれば「おせっかいな宗教」と言えるかも知れない。この「大宣教命令」に応えて数多くの宣教者たちが、野を越え山を越え海を越えて、命を賭けてイエス・キリストの福音を伝えていった。
マタイは4つの福音書の中で最もユダヤ的色彩が強い、いわば「保守的な」福音書である。著者も読者もユダヤ人クリスチャン、ユダヤ的伝統に対し誇りを抱きそれを大切にしている人々だ。その福音書の最後の言葉が「すべての民を弟子としなさい」となっているのは、不思議に思える。これはいったい何を意味するのであろうか。
私はそこにマタイの揺れ動く心情を想像する。彼はユダヤ的伝統が大好きで、それを大切にしたいと心から願っている。しかしこれからの信仰共同体の歩みを考えるならば、やみくもに伝統に閉じこもっていてはいけないのではないか。「新しい人々」と出会うためには、「自分の好み」という枠を越えて、すべての人に宣べ伝えるには何をすべきか、そんな意識で新たに歩み始めねばならないのではないか… そんな「ゆらぎ」のようなものを感じるのである。
きゃりーぱみゅぱみゅの歌を礼拝で用いる、などということは、通常の自分だったら思いもしなかっただろう。しかし「中高生に届けるために…」という思いから、新しい世界が広げられてゆくこともあるのだ。パウロは「福音のためならどんなことでもする」(Ⅰコリ9:23)と記した。「すべての人に宣べ伝える」、そのためにはどんなことができるか。共にその道を探し求めよう。