『 死んでも生きる?死ぬから活きる! 』

2017年5月7日(日)
ヨハネによる福音書11:17-27

イエス・キリストの復活を信じる信仰は、キリスト教にとって信仰の原点であり出発点である。私たちの宣教、それはよみがえりの主を宣べ伝えることであり、私たちの信仰はよみがえりの主と共に、導かれて歩むことに他ならない。またキリスト教の教義においては、私たちもまた終わりの日によみがえり、最後の審判を受けるという道が示されている。

このようにキリスト教にとって復活信仰は重要な核となるものであるのだが、その信仰のありようについて、どうしてもひとつ気になることがある。それは「死の位置づけ、死の受けとめ方」である。

「私は復活を信じています。だから死は怖くありません」と言われる人がいる。それは確かに真実な思いだと言えるが、そこでもう一歩突っ込んで考えて欲しいのだ。「復活を信じているから死は恐くない」と言う時、そこでの死とはマイナスであり、敗北であり、ネガティブなだけのものとして捉えられてはいないだろうか。

「死」とは生命活動の停止であり、息をしたりモノを考えたり、泣いたり笑ったりしなくなることである。まるで自分が消えてしまうように覚えて、人はそこに不安や恐怖を感じる。だから健康に気を遣ったり、病気になれば治療をするのであろう。キリスト教では死は罪に対する罰という側面もある。だから一層、それをネガティブに受けとめる思いが深まるのかも知れない。

しかしそれに対峙するように「復活信仰」を掲げ、「だから死は恐くない」と語る時、それで本当に死を受けとめ、死の不安や恐怖を乗り越えたことになるのだろうか?TVゲームではボタン一つでキャラクターがよみがえる。だからやられてしまっても「大丈夫」と思える。しかし私たちにとって「死」や「復活」とは、そういうものなのだろうか?

「わたしはよみがえりであり命である。私を信じる者は死んでも生きる」とイエスは言われる。「死んでも生きる」とはどういうことか?ラザロのように、死体が再び起き上がることか?私たちが今こうしてモノを考え生きている、そのままの姿で死後もなお生き続けることだろうか?私には「それでは死んだことにならんじゃないか」と思えるのである。

創世記には「アブラハム(イサク)は満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」という記述がある。そこでは、死は避けるべきネガティブな事柄ではなく、一つの充足として捉えられている。ネイティブ・アメリカンたちは「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と語り継ぎ、死を受容していった。これこそ死の不安を真に乗り越えた人の姿と言えるのではないか。

復活信仰とは何だろう?「死んでも生きる」ということを信じることだろうか?「この私」という意識にしがみつく時、そんな風に思いたくなる気持ちもよく分かる。しかし私たちが「この私」への執着を離れ、神さまにすべてを委ねてゆく、そして神の造られたこの世界と、生まれて出会った人々に思いを託してゆく…そんな思いに導かれてゆくとき、私たちは「死んでも生きる」のではなく、「死ぬから活きる」そんないのちの歩みがあることことに気付かされるのである。