『こたえられても、られなくても』

2017年5月21日(日)
列王記上18:36-39、マタイ6:5-15

先日の婦人会野外例会の日、朝はどしゃぶりだった。妻に「これは無理だ。赤城行きは中止にしたら?」と言うと、「小雨決行、午後から止むという予報です」。果たして出かけてみると、午後には雨がやみ陽も射してきて、豊かな午後を過ごすことができた。「ほら晴れたでしょ?まったく、あなたは信仰がないのだから」と言われてしまった。

確かに悲観的なことを言ったのは事実である。反論はしなかったが、しかし心の中のアマノジャクがつぶやいていた。「信仰って、そんなもんか?」確かに信仰にはまだ見ぬ未来に希望を抱き、信じてその実現を待つという一面がある。しかし一方で、信じて祈っても雨は止まずカミナリさえ落ちることがあるかも知れない。それは「信仰が足りない」ということになるのだろうか?

お正月になると多くの人が初詣に訪れる。そこで祈られていることは「家内安全」「商売繁盛」「念願成就」要するにご利益を求める祈りだ。しかしかつて神官に教わったところによると、本来の祈願とはそういうものではなく、ある種の「決意表明」だというのだ。

受験生がお参りをして、あとは勉強しないで「合格しますように」と祈るのはご都合主義の祈願である。しかし合格に向けて一所懸命勉強し、なおその上で「合格に向けて頑張りますので、どうぞ支えて下さい」それが本来の祈願だと言うのだ。「祈り」とは、ある意味そういうものではないだろうか。

列王記では、ヤハウェの神を信じるエリヤと、450人のバアルの預言者との対決が描かれる。それぞれが献げる供え物の雄牛に対して、火をもって応えて下さるのが「まことの神」という闘いだ。果たしてバアルに呼びかける声には何の反応もなく、エリヤの呼びかけには天から火が降って献げ物を焼き尽くした。「まことの神は祈りを聞いて下さる」― 旧約聖書にはそんな力強い話がいくつもある。

一方新約の箇所はイエスの祈りについての教えである。イエスは「神は祈る前からあなたに必要なものはご存知だ」と言われ、そして「主の祈り」を教えられた。またマタイ21章では「信じて祈れば求める者は何でも得られる」(21:22)と言われた。イエスも「祈れば神さまは必ずこたえて下さる」と言われるのだろうか?

ルカ18章には、願いがかなえられなくてもしつこく願い続けるやもめのたとえが語られる。どんなに熱心に祈ったとしても、神さまがそれにこたえて下さらない時がある。しかしそれでもあきらめずに祈り続けることを、イエスは示される。

私たちにとって、祈りが聞かれ願いがかなえられた、という体験は確かに存在する。そんな時には素直に神さまに感謝しよう。しかしどんなに祈っても願いがかなえられないこともある。しかしそんな時にも、いやそんな時こそ祈り続けよう。「かなえられても、られなくても、祈り続ける」そんな信仰を求めよう。