『 世の光となる 』

2017年6月25日(日)
マタイによる福音書 5:13-36

恵泉女学園や日本YWCAの創立に関わった河井道のエピソードにこんな話がある。アメリカ留学に向かう途中、寄港したバンクーバーで、あまりにも美しい街の夜景に見とれていたら、同行した新渡戸稲造がこう語ったという。「明かりが街全体を照らしてるこの街と、暗い夜道の中あんどんを持ちながら道を踏み外し溝に落ちてしまう日本とを比べてごらん。みんなが力を合わせて街を明るくする、そんな協力がこれからの日本には必要ではないかな。」後年、河井は「この夜の新渡戸先生の言葉は忘れられない思い出となった」と語っていた。

「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。今日の箇所のイエスの言葉である。河井道もこの言葉を恵泉の女学生にくりかえし語っていたという。まだ女性に光が当たらなかった時代、しかし「あなたがたは光を持っている。それを輝かせなさい」ということをモットーとしていった。

今日の箇所の直前には「あなたがたは地の塩である」という言葉もある。塩は何かに溶け込んでしみ込むことによって味を出す働きをなす。隠れたところで力を発揮するのが塩の役割だ。これに対して光の方は、隠れてしまったら意味がない。「(光は)燭台の上に置く」とイエスも言われる。地の塩と世の光。それは隠れたところでの働きと、表に立つところでの働きを表す。そしてそのどちらも、この世界にとって大切な働きだ。

イエスは「あなたがたの立派な行いを見て人々が天の父をあがめるようになる」とも言われた。この言葉には若干のためらいを感じる。なぜならわたしたち人間は(少なくとも私自身は)そんなに立派な存在ではないということを知っているからだ。また「クリスチャンは立派でなくてはいけない」という意識は、かえってこんな鼻持ちならない言葉を生み出してしまう。「あなた、それでもクリスチャンなの?」

決して「立派ない人はダメだ、高慢だ」と言いたいのではない。謙虚でしかも立派なクリスチャンはたくさんおられる。そのことは私たちにとって感謝であり希望だ。しかし、立派になろうとしてもなれない人がいる。そんな人はクリスチャン失格なのだろうか?そうではないはずだ。

「世の光」とはどんな光なのだろう。その光り方とは、どのような光り方なのだろう?夜空に光る星、それはいずれも「ひとつの太陽」だ。つまり自分が燃えて光を発している、そんな光が届いて輝いているように見える。しかし宇宙には、もっとたくさんの、自らは燃えていない(光を発していない)星が無数にある。そのような星は存在価値がないのだろうか?そう言い切ってしまうことは、私たちが自分の存在を否定することに等しい。なぜなら地球もまた、自ら光を発することのない星だからだ。

しかし私たちの見上げる夜空には、満天の星の輝きとは違う形で光を発する星がある。それは月や金星のように太陽の光を反射して光る星だ。関西学院の校章は三日月である。太陽は神さまでありイエス・キリスト、われわれはその光を受けて光る、しかも完成していない未熟な三日月だ、しかし少しずつ完成に向かって途上を歩む存在なのだ… そんなメッセージが込められている。「あなたがたは世の光」… その光は、そんな三日月のような光で構わないのではないだろうか。

夜空に月が美しくかがやく。しかしそれ以上に、宇宙に浮かぶ地球は太陽の光を受けて青く美しく輝いているという。私たちはそんな星にいのち与えられて生かされているのだ。神の光を受けて、自らも輝く者となろう。