2017年7月23日(日)
エレミヤ7:1-7、マタイ7:21-23
今日の箇所は、いずれも「うわべの敬虔さ」を戒める言葉である。エレミヤは「主の神殿、主の神殿…」という「むなしい言葉」により頼んではならない、と語る。私たちの言葉に置き換えれば、「神さまの教会」というような言葉を繰り返す人のことだろうか。いかにも「敬虔な=信仰熱心な」人々の姿をイメージする。
しかしエレミヤはそのようなうわべの敬虔さよりも、「自らの道を正し、正義を行なうこと」「寄留の外国人・孤児・寡婦を虐げないこと」そういう具体的な働きこそが大切だ、と説く。「寄留の外国人・孤児・寡婦」とは、旧約聖書では助けを必要としている弱い立場の人々のことを指す。
一方のマタイは、口先でイエスに「主よ、主よ」と言う人ではなく、天の父の御心を行なう者こそが天国に行けるのだ、と語る。うわべの敬虔さよりも大切な振る舞いがあることがここでも語られる。
それどころか、表面的にはあまり態度や素行が良くないように見えても、その行為によって祝福される… そんな人の姿も語られる。マタイ21:28以下の「二人の息子のたとえ」はそんなお話のひとつだ。父親が二人の息子に「ぶどう園に行って働きなさい」と言った。兄は「イヤだ!」と言ったが、後で考え直して出かけた。弟は「ハイ、参ります」と言ったが、出かけなかった… 親への反発を抱いて生きてきた人には、思い当る節がいくつもあるお話ではないだろうか。
映画やドラマなどをみていて、「見た目や態度は悪いが、心は優しく美しい」…そんなキャラクターに心惹かれるものを感じることが多い。(『トイ・ストーリー』のベビー・フェイス、『シザー・ハンズ』のエドワード、『下妻物語』のイチコ、『エデンの東』のキャル etc..)いずれも一筋縄ではいかない、ひとクセもふたクセもあるが、その見た目たは別のところに、一途に光を求める心が宿っている…そんな存在である。
旧約サムエル記で、ダビデが次の王位に選ばれる際に、預言者サムエルに語りかけられた言葉を思い起こす。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16:7)
イエスは人をその外見や職業、民族や出自といったことで偏り見られることはなかった。先の「二人の息子のたとえ」では、傲慢な律法学者たちにこのたとえ話を語った後、「徴税人や遊女の方が、あなたがたより先に神の国に入る」と言われた。
どんなにうわべでは敬虔さを装っても、あるいは逆にわざと悪態をついたとしても、神さまはそんなことはすべてお見通しである。大切なのは言葉や知識よりも心であり、そこから生まれる生き様なのだ。