『 神の家族 』

2017年8月27日(日)
創世記24:62-67、マタイ12:46-50

CSジュニア科のキャンプで、赤城山で一泊二日を過ごしてきた。いつもの礼拝に出席している子もいれば、いつもは来ていない子もいる。しかしたった二日間を一緒に過ごす中で、互いの存在が気になり始める。「神の家族」としての教会の姿に少し近づけたような気がする。

「神の家族」とは教会の目指す理想的なあり方として語られることが多いが、一方ではこの言葉につまずきやプレッシャーを感じる人もいるという。家族制度の持つ同調圧力や強制によって、自分の望まない人生を歩まされた人もいるからだ。そのような家族のあり方は、批判的に見つめる必要があろう。

確かに家族とは良い面ばかりではない。すべての人が家族を100%愛せるわけではないだろう。しかしそれでもなお、私は「神の家族」という言葉に、可能性や理想を感じる。無人島や山の中で仙人のようにひとりで生きる道を選ばない限り、私たちは「共に生きる存在」としての歩みを与えられている。「神の家族」という言葉には、その共に生きるということについての可能性や目標が宿っていると思うのだ。

旧約・創世記の箇所は、イサクのもとに妻となる女性(リベカ)がやってくる場面だ。父(アブラハム)が遣わしたしもべの采配によって二人は結ばれるのであるが、そこまで二人は一度も顔を合わせていない。昔のお見合い結婚のような形である。「その背後に神の導きがあったのだ」ということなのだろうが、現代社会においてこのような家族のあり方を、「理想」として押し付けることには無理があるだろう。

新約の箇所は、イエスが教えておられる時、イエスの家族がやってきて人をつかわし、イエスを呼びに行かせた場面だ。「外であなたの母・兄弟がお待ちです」と述べるその人に、イエスは「私の母・兄弟とは誰か?」と言い、弟子たちを指して「ここに私の母・兄弟がいる」と語られた。肉親を外に待たせて、なんと冷たい息子…そのように思うだろうか。

イエスはここで、「家族が来てるのだから、まず外に出てくるのが当然だろう」といった“家族の同調圧力”を克服し、血縁によらない「家族」の結びつきを語られたのだと思う。

「神のみこころを行なう者こそ、私の母・兄弟だ」そうも言われた。これは「正しい信仰を持つ立派な人こそが『神の家族』だ」という意味だろうか?全然違う。そのような理解はそれこそ同調圧力の源であり、鼻持ちならないエリート主義に染まってしまう。

イエスの元に集まった人たちは、決して信仰的に「立派な」人たちではなかった。しかしその弱さや過ちも含めて、「それでも一緒に歩もうよ」と受け入れる、そんな関わりであった。それはまさに他の誰が見捨てても、最後までその人を信じ受け入れる「家族」のつながりであった。

釈徹宗さんが「あらゆる宗教にとって最後に語るべき言葉は『おかえり』ではないかと思うのです。」と語っておられた。神に赦された者同士として、「ただいま」「おかえり」と血縁を超えて言い合える関係。それが私たちの目指す「神の家族」の姿である。最後に戻れる“母港”がある…それを信じるから私たちは生きてける。