『 何としてでも手に入れたいもの 』

2017年9月10日(日)
列王記上3:4-15、マタイ13:44-50

神さまが「あなたの一番の願いをかなえてあげよう」そう言われたら、何と答えるだろうか。健康、長寿、栄誉、名声、お金… いろいろ思い浮かぶ。若い時期ではなく、人生の晩年にそう言われたら、何を願うだろうか。

ソロモンは、様々な王位継承の争いを制して、ダビデの王位を引き継いだ。ある日、夢の中で神の声を聞く。「何でも願うがよい。あなたに与えよう」。政敵を打ち払い、絶頂の状態にあったソロモン。彼は何を願ったか?

健康、長寿、富や財産、敵に打ち勝つ力… そのようなものをソロモンは願わなかった。「あなたの民を正しく裁き、善悪を判断できる知恵を下さい。」そう願ったのだ。神はその言葉を喜び、ソロモンにその知恵と、そして彼が願わなかった富と栄光、そして長寿への約束も恵まれた。しかし、その後、権力の座に長くいた驕りから主の前に過ちを犯し、次の代では王国が分裂するという裁きを受けることになる。

新約はイエスのたとえ話、持ち物をみな売り払って隠された宝や高価な真珠を買い求める人のお話だ。「持ち物をみな売り払ってでも手に入れたいもの、それが天の国だ」とイエスは教えるのであるが、ではその「天の国」とはどういうものなのか、このたとえを読んだだけでは分からない。ただ私たちはこのテキストから知るのである。全財産をつぎ込んでも欲しいもの・手に入れたいものがある、そんな人の姿を。

「あなたにとって、全財産をつぎ込んでも手に入れたいものは何ですか?」そう聞かれて、あなたはどんな風に答えるだろうか。参考にしたい聖書の箇所がある。イエスの許を訪ね「永遠のいのちを手に入れるにはどうしたらよいか」を尋ねた富める若者のお話だ。(マタイ19:16以下)

イエスはこの問いに対して「持ち物をみな売り払って、貧しいものに施しなさい」と答えられた。「全財産をつぎ込んでまでして手に入れるべきもの」、そこでイエスが示されたのは「人に与えること」だった。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)。そのように感じられる人生を手に入れなさい、ということだ。

小さな絵本がある。「マローンおばさん」。ひとり暮らしの自分の許をたずねるスズメやネコやキツネなどの迷える動物たちを、次々に迎え入れ世話をする老女の話だ。繰り返される言葉がある。「あんたの居場所がここにはあるよ」。そうやって小さな隣人の居場所を与えること。そしてその存在を受け入れて歩むこと。そこに本当の喜びに包まれた人生があることを静かに語りかける。

イエスは言われる。「受けるより与える方が幸いと感じる心、そのような心のあるところに『天の国・永遠のいのち』はある。そのような心を求めなさい、それは何としてでも手に入れる価値のある、貴いものなのだよ」と。

(恵老祝福礼拝)