『 赦しと和解 』

2017年9月24日(日)
創世記45:1-8,マタイ18:21-35

宗教改革500年、以来教会はカトリックとプロテスタントに分かれて歩んできた。かつては対立し、戦争までした関係だが、今現在はどうだろうか?前橋ではカトリック教会の人たちとも平和運動などでご一緒することがある。聖書解釈や教会制度の違いはあるけれども、互いに排除することなくゆるやかに共存しているの実情ではないか。

昨年、世界ルーテル教会連盟の議長とローマ・カトリック教会の教皇とが、共同声明に署名をした。50年の対話を経て、署名にたどり着いたという。ルーテルのユナン議長は両親がパレスチナ難民である。宗教対立の苦しみを実体験として持っておられる人だ。対立を煽り力による解決を訴える声が支持を集める現状の中、「確固たる穏健」の志で対話による解決を目指し続けておられる。

「赦しと和解」。それは聖書が示す最も大切なメッセージのひとつである。人間は過ちを犯し得る存在、原罪をもって生まれてくる、というのが聖書の基本的な人間理解だ。そんな人間同士が、自分の「主観的な正しさ」に凝り固まり、相手に憎悪を抱いていたのではいつまでも争いがこの世からはなくならない。

しかし一方で人間は言葉を持ち、そして相手の立場に立ってものを考える「想像力」を持っている。そのような力をフルに発揮し、赦しと和解の道を進むことを神は望んでおられる… それが聖書のメッセージだ。

創世記の後半に記されたヨセフ物語。兄たちによってエジプトに売られたヨセフが、かの地で立身出世し、自分の元に食糧調達に来た兄たちと再会し、和解する物語である。「私をここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」とヨセフは語る。人間の悪意というネガティブな感情をも用いて、神は世界を導き救われる… そんな摂理を信じる心から、赦しと和解の道が開かれてゆく。

新約はペトロのイエスへの質問だ。「兄弟が私に罪を犯した場合、何度赦すべきですか?7回までですか?」。「7」とは完全数を表す。赦しの大切さをペトロなりに分かっていたということか。しかしイエスは応えられた。「7を70倍するまで赦しなさい」。これは「もっともっと、さらに完全に赦しなさい」ということだ。

続けて語られた譬え話は、自分の負う1万タラントン(六千億円!)の借金を赦してもらいながら、自分が貸した100デナリオン(百万円)の借金を赦さなかった男の話だ。「あなたは神さまから多くを赦されている。しかしなぜ、あなたは人のことを赦そうとしないのか。それは愚かな姿ではないか」とイエスは問うのである。

まずは自分の過ち多い姿を認め、そしてその罪を赦して下さる神の恵みを知ること。そのありがたさ・喜びを思い出すところから、お互いへの赦しと和解の道が開かれることをイエスは示される。