『 枠を超えて働く愛 』

2018年1月14日(日)
ヨハネによる福音書5:1-18

混雑時の高速道路、サービスエリアでは食事の席を確保するのに長蛇の列ができる。空いたところを即座に確保しようとしている人々… 自分もその一員であることを振り返るとき、つくづく人間は自分本位な存在だと痛感する。

自分と自分の家族、仲間といったところでひとつの枠を作り、その枠を壁として押し合い圧し合いをする… それは群れを作り縄張り争いをしながら暮らしてきた、生き物としての自己防衛本能なのかも知れない。あるいはもっとはるか昔、細胞が内側に核を持ちその周りを膜で覆うようになって以来の、細胞レベルの起源にちなむものなのかも知れない。

今日の箇所は、そのような人間の「枠を巡っての自己本位性」といったものについて、深く考えさせられるテキストである。

神殿の外、「羊の門」の傍らに「ベトザタ」という名の池があった。「ベトザタ」とは「恵みの家」の意、確かにある意味での恵みの出来事が起こる場所であった。そこには病気の人、目の見えない人、足や身体の不自由な人がうごめいていた。天使が舞い降りる時に池の水が揺れる、その時最初に池に入ったものは癒されると信じられていたからだ。

真っ先に水に入れる人にとっては、まさに「恵みの家」だ。しかし別の意味では過酷な、心痛む状況を生み出していたとも言える。みんな病気や障害で苦しんでいる… そんな最も支え合わねばならない状況の中にさえ、ある種の競争原理が働いてしまっているからだ。

そこに38年間、池のほとりにたたずんでいた人がいた。その間、だれも彼のことを助けたり手伝ったり気にかけたりしてくれなかったのである。38年間の絶望。それは大きな挫折と孤独に結びついていた。

イエスは声をかけられた。「良くなりたいか」。あたりまえではないか…と周囲の者は思うだろう。しかしイエスは周囲の人の思いではなく、その人自身の心に向けて尋ねておられるのだ。彼は答える「誰も私を顧みてくれないのです」。するとイエスは「起き上がりなさい(エゲイロー)」と言われた。「目を覚ます」「建て直す(ヨハ2:19)」「死人をよみがえらせる」との意味を持つ言葉である。

病人や障害も持った人でさえ枠を作り争い合っている現実の中で、イエスは枠を超えてこの人に呼びかけられる。その力強い言葉によってこの人は癒された。

イエスの行為はもう一つの枠をも超えるものだった。その日は安息日であったのだ。治療行為、そして「起きて床を担ぐ」という行為が、安息日違反すなわち労働にあたると指摘されたのである。

イエスは「私の父は今(安息日)もなお働いている。だから私も働くのだ」と言われた。当時の社会のルールを、敢えて破られた(枠を超えられた)のである。このことによってイエスは「律法違反者=秩序紊乱者」として命を狙われるようになる。安息日という枠を超えて働く愛を示すこと、それは命を懸けたメッセージだったである。

生き馬の目を抜くような社会の中で、自分本位の枠を超えて人のことを思いやる心を持つことができるかどうか(混雑時のSAで席を譲り合えるかどうか)… 大変心もとない私たちではあるが、イエスのこの命がけのメッセージに従うところにこそ本当の豊かさがあることを信じて歩みたい。