『 それぞれの賜物に応じて 』

2018年1月21日(日)
エレミヤ1:4-10、ローマ12:1-8

今日は礼拝後全体協議会で、役員会の改革とそれに伴う教会の役割分担の見直しについて話し合うことになっている。システムや制度を時代や状況に見合う形に変えることは必要だ。しかし最後に残るものがある。変更された制度・システムをどう受けとめ引き受けていくか、教会に連なる一人一人の心の持ちようの課題である。その課題に、聖書はどんなメッセージを語りかけてくれるのだろうか。

ローマの信徒への手紙の聖句は、私たちのささげる礼拝のあるべき姿について、しばしば引用される箇所である。礼拝に臨む私たちが心すべきことは、「私たちのニーズを満たして下さる神」を求めることではない。「神のニーズに私たちはどう応えることができるか」を見出すことだ、とパウロは教える。それが「自分の身体を聖なるいけにえとして献げることだ」と。その上でその礼拝に必要な役割があるならば、それぞれが神さまから異なる賜物をいただいているのだから、その賜物に応じて(賜物を生かして)それを担い合いなさいと勧めるのである。

「自分を過大に評価してはならない。慎み深く評価しなさい」とも記している。ローマの教会には尊大なうぬぼれ家さんが多かったのであろうか?しかしこの言葉に触発されて逆のことも思う。「自分を過少に評価してはならない」というのも大切なことではないか。

パウロは「与えられた賜物に応じて」と言っている。出来ないことをしなさい、無理をしてでもしなさい、とは言っていない。例えば礼拝の奏楽は誰もができる奉仕ではない。その賜物を与えられた人が担いうる役割である。

しかし一方で、できるのに「できない」、やろうと思えばできるのに「私にはできない」と言って、遠慮したり自分を卑下することはないだろうか。その方が楽だが、そこにとどまってしまうならば、私たちは神から授かった賜物を「土の中に埋めて」しまうのではないかと思う。

エレミヤは神の預言者としての召命を受けた時、自分にはとても担い切れない、私は若者に過ぎな…と言ってそれを拒もうとした。しかし神が「私があなたに言葉を授ける。私が賜物を与える」と宣言された。その言葉に押し出されて、エレミヤは預言者として歩みだす。

「私は役割を担うのに、ふさわしいものではありません」と言って拒む道をエレミヤは歩まなかった。「ふさわしくない者ではありますが、みこころならば担わせていただきます」という道を歩んだのである。それが「それぞれの賜物に応じて」生きる姿であり、本当の謙虚さである。

ある地方教会(小規模教会)の取り組みに感銘を受けたことがある。教会員全員が「年に一度は礼拝の奏楽を担おう」と、みんなでオルガンの練習をしておられるというのだ。卓越した技量を持つ人は少ないかも知れない。一回の礼拝に必要な、3~4曲しかレパートリーを持たない人もいるに違いない。しかしそのような志を持つこと、それが与えられた賜物を生かす歩みであり、み言葉に仕える姿だと感じさせられた。