2018年2月4日(日)
ヨハネによる福音書9:35-41
生まれつき目の見えない人が、イエスによって癒された物語の続編である。この「奇跡物語」を読む時に、私たちの内にひとつの決めつけがないだろうか。それは「目が見えないことは不幸であり改善すべきことである」という決めつけだ。
確かに「晴眼者」中心に作られている社会で目が見えずに暮らして行くときに、不便なことはあるだろう。しかしそれは周囲や社会の関わりによって乗り越えられる課題である。「障がいは不便です。しかし不幸ではありません。」(ヘレン・ケラー)
音楽の世界では盲目でありながら活躍をする人が多くいる。舌を「ティッ、ティッ」と鳴らし、跳ね返る音で360度の空間認識ができる人がいる。鋭敏に音を追求する世界では、見えないことはがむしろ有利に働くこともあるように思う。
逆に「自分は見えている」と思い込んでいるところに大きな問題が潜んでいる。探し物などをしていて、目に入っているのに見えていない、見ようとしていないことが何度もある。同じように、自分は分かっている・理解している「はずだ」、そういう思い込みによって、実は真実が見えなくなっていることがあるのではないか。
シロアムの池で癒された人を見て驚いた周囲の人は、その人をファリサイ派の人々のところに連れてゆき報告した。するとファリサイ派たちはイエスがその人を癒されたのが安息日であったことを咎め、イエスを「罪人」となじった。他のユダヤ人たちも、イエスのなされた癒しの業を認めたくないあまりに、「目が見えなかったというのはデマではないか」と疑った。
彼らは「自分たちは見えている、神のみこころが分かっている」と思い込んでいた。そのことが、イエスの下で起こった奇跡、そこに現わされた神のみ業を見えなくさせていたのである。
一方の癒された人は、何の自負心もプライドもなかった。だからまっすぐにイエスを信じる信仰へと飛び込んでいけた。この癒された人を前にして、イエスはファリサイ派たちに向かって言われた。「今『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。」
「学び」とは何だろう?それは「私はまだ本当のことを知らない、知りたい」という思いから立ち上がる振る舞いだ。私たちには自分の無知を認めたがらないところがある。下手なプライドが起き上がり、何でも「想定内」のこととして処理をし、頭を下げて教えを乞うことができなくなることがある。そうすることによって、大きな真実を見ることや、生きる喜び・暖かさを遠ざけてしまうならば、何ともったいないことか。
「見えると言い張る罪」を克服しよう。