2018年2月11日(日)
ヨハネによる福音書8:1-11
イエスによる「癒し」とは、単なる病気や身体の不具合の「治療・改善」ではない。イエスとの出会いの中で人間の尊厳を認められ、生まれてきたことを肯定できる体験のことである。周囲から「お前は罪人だ、ダメなヤツだ!」と決めつけられてきた人に、イエスは「いや、そんなことはない。神さまはありのままのあなたを見つめ、愛していて下さるのだ。」と語り、人々を「癒された」。
いま巷では、「ありのままでいいよ」「ありのままのキミがすてきだよ」そんなメッセージが溢れている。他人や社会の尺度を強いられて、自分の思いを押し殺して生きざるを得ない人々にとっては、そのようなメッセージが必要なのかも知れない。現代において、教会が示すべき大切なメッセージである。
しかし一方で思うことがある。「ありのままのわたし」の中には、自分の弱さや醜さ、とても人には見せられない、神さまにだって知られたくない部分もあるのではないか。人のことを妬んだり、ずるいことを考えたり、大切なことから逃げ出したり…聖書が「罪」と呼んでいる、そんな部分も含めて、イエスは「ありのままのわたし」を受け入れて下さるのだろうか、と。
今日の箇所にひとりの「罪の女」が登場する。姦淫の現場で捕らえられた女性。レビ記など律法の戒めに照らせば、石打ちの処刑を受けねばならない立場である。しかし処刑することが目的でイエスの元に引かれたのではない。イエスを困らせ貶めるためである。そのような目的のために、いたたまれない心を抱く女性を「利用する」… ファリサイ派の人々の欺瞞性にやるせない思いがする。
イエスは「あなたがたの中で罪のない者が石を投げなさい」と返された。生まれて一度も罪を犯したことのない人こそ裁く資格があるのだ、と。そう言われて石を手にできる人はいなかった。ひとり、またひとりと立ち去り、最後にイエスも言われた。「わたしもあなたを罪に定めない」。
イエスは彼女を赦されたのだろうか。そうだと思う。どんな事情があったか分からないが、彼女の行為は「罪」である。しかしその部分も含めて、イエスはその時の「ありのままの彼女」を、受け入れ、赦されたのだと思う。
しかしイエスは罪を不問にされたのではない。過ちを見過ごし、見て見ぬふりをされたのではない。「行きなさい。これからはもう罪を犯さないように」という言葉で、新しい歩みへと彼女を押し出されたのだ。これこそが本当の「赦し」であり「癒し」である。本当の「赦し」とは、罪に対する罰を免れさせてくれるだけのものではなく、その罪を離れて新しく生きる歩みへと導いてくれるものなのである。
イエスはいつも相反する二つの言葉で私たちを導かれる。ひとつは「あなたはそのままでいいよ」。人と比べた優劣で一喜一憂するのではなく、神が与えて下さったそのままの自分で従えばいいのだ、と。もうひとつは「あなたはそれでいいのか?」。ずるさや意気地のなさの中に居直ろうとする、そんな私たちの「弱さ」に向けて、そのように問いかけられる。
この二つの言葉の間で慰められ、気付かされて、自分の人生が本当の豊かさへと導かれてゆく…それがイエスの導きである。その導きを信じることによって、私たちはそこで、本当の意味での「ありのままのわたし」になることができるのだ。