2018年2月25日(日)
マルコ3:20-30
礼拝のメッセージのタイトルは、該当する聖書の箇所から浮かび上がるメッセージから着想を得てつけている。それを教会員のSさんが看板として筆で書いて下さるのだが、時々「このタイトルを道行く人はどう見るのかな?」と気になることがある。今日のタイトルは「赦されざる罪」。見る人はあまり気分がよくないかも知れない。
以前にも話したが、私は「死後さばきにあう(聖書)」という類の黒い看板がニガ手だ。「お前らみんな、罪人じゃ!」と決めつけているみたいで、イヤな気持ちになる。むしろ「生かされる喜び」や「共に歩むあたたかさ」を大切にしたいと思うタイプだ。しかし、「罪」の問題は、聖書が取り組んできた大切なテーマのひとつである。
聖書は「人は生まれながらにして罪人」という理解に立つ。どんな人格者や慈愛に満ち溢れているように見えるであっても、心の中には誰にも言えないずるさや醜さを持っている…。その部分を避けることなく見つめ、そして悔い改めへと導かれること。それが聖書の目指す道のひとつである。この見識が、キリスト教を「単純なご利益宗教」と一線を画する歩みへと導いてきたと思う。
聖書が罪の問題を語るのは、人の罪を暴き出して裁くためではない。むしろ悔い改めへと導いて、その罪を赦して下さる神の愛、キリストの導きを示すためである。「罪の赦し」とは、聖書が語る福音の、最も大切なテーマのひとつである。
ところが、今日のタイトルは「赦されざる罪」。「どういうことか。赦されざる罪などというものがあるのだろうか」と思われた方もおられるだろう。「それはあるのだ。」というのが今日の聖書の箇所である。イエスがそのように言っておられるのだ。
悪霊にとりつかれた人を癒すイエスの働きに対して、「あれは悪霊の力を使って悪霊を追い出しているのだ」とファリサイ派の人々が語っていた。それに対してイエスは「人が犯すどんな罪や冒涜の言葉も赦される。しかし聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない」と言われたことが記されている。
「聖霊を冒涜する罪」とは何だろう?それは聖霊の力をあざ笑うということだ。聖霊とは、私たちに今も働きかけられる目に見えない神さまの働きかけのこと。先輩の牧師はその働きのことを「気付かせてくれる神の導き」と呼んだ。自分が気付かずにいたこと、神の恵みによって生かされていることや、知らずに犯した隣人への罪に「気付かせてくれる」。それが聖霊の導きだというのだ。
その聖霊の働きを冒涜する、すなわち認めず否定する者は、「気付き」の機会を失い、自らの罪を知ることもできず、それゆえに悔い改めへと導かれることもない。そのようにして、自分で自分を「赦されざる者」にしてしまっている…それをイエスは「赦されざる罪」と呼ばれたのではないだろうか。
私たちはしばしば、罪を犯す。自分でそうとは知らず、時には「善かれ」と思い「自分は正しい」と思って、罪を犯す。それらの罪は赦されるのか、と問われれば、「赦される」と答えたい。私たちが聖霊の導きによってその罪に気付き、それを認め悔い改めるならば、神は私たちの罪を赦して下さる…それが聖書のメッセージである。もしも「赦されざる罪」があるとするならば、それは、自らの罪を認めようとしない私たちのかたくなな心である。