『栄光と、苦難と 』

2018年3月4日(日)
マルコによる福音書8:27-33

平昌オリンピックが終了した。開幕前は盛り上がりを感じていなかったが、始まったら夢中になって日本選手を応援していた。ただ、オリンピックを見ていていつも残念に思うことがある。期待されていたにも関わらず、成果を残せなかった日本選手が「国民の皆さんの期待に応えられなくてすみません」とコメントしている姿だ。本人が一番悔しいはずなのに…国民の期待なんて二の次でいいじゃないか…と思ってしまうのだ。

人の目を気にする日本人。それをR.ベネディクトは「恥の文化」と名付けた。人から見られて恥ずかしいことはしないように。それが日本人のメンタリティだという。一方、欧米キリスト教文化は神の目を気にする「罪の文化」ということだ。

ここで「罪の文化こそ素晴らしくて、恥の文化は良くない」と言いたいのではない。それぞれの文化に特質があり、良い面・悪い面があるように思う。ただし、人の目を気にし過ぎるあまりに、自分の思うことができなかったり、信念を貫けなかったりしたならば、それはあまり幸せな道のりとはならないだろう。それは「国民の皆さまの期待」を感じ過ぎ、プレッシャーにつぶされてしまって、普段通りの力を出せなかったオリンピック選手の憂き目に通じるように思う。

イエスは「人の目」ではなく「神の目」を意識しながら生きられたと思う。だからこそあそこまで貫けたし、信念を曲げずに生きられた。そして、だからこそ十字架への歩みへと追いやられたのだと思う。

しかし今日の箇所には、そのイエスが人の評判を気にしておられた様子が記されている。「人々は私のことを何者だと言っているか?」。弟子たちが人々の評判(洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者)を応えると、「ではあなたがたは私を何者だと言うのか」と問われた。ペトロは答えた。「あなたこそメシヤです」と。恐らく得意そうに、「ドヤ顔」で。

するとイエスは「そのことを誰にも言うな」と戒められた、と記される。そしてそれに続いてイエスが語られたのは、弟子たちにとって思いもよらない言葉だった。それはイエス自身の受難予告だったのだ。ペトロは「とんでもない!そんなことはあってはなりません!」とイエスを諫めた。するとイエスは「サタン引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われた。

「栄光のメシヤ」を求めイエスに期待していた弟子たち。しかしイエスはそれを「人の思い」だと言われた。そして続いて、自分に従う者の心構えとして、十字架(苦難)を背負う覚悟を求められた。

人は誰でも心の中に「栄光を求める思い」を抱いている。自分が認められたい、評価されたい…。金メダルのような栄光は一握りの人だけだが、そんな小さな栄光を求める心は誰もが抱くものだ。そしてその「小さな栄光」が私たちの人生に輝きを与えてくれる。イエスはそれを求める心を捨てよ、と命じられるのだろうか?

イエスは「人生の輝きをあきらめろ」と言われたのではないと思う。どんな世界の片隅でも神さまが目をとめて下さる所に恵みと栄光が現わされる…それがイエスの教えであり、いと小さき者を訪ねて歩かれた生き様だった。どんな人をも輝かせて下さる神の愛をイエスは伝えられた。

ただ、一足飛びに栄光を求めてしまうと、大切なものをすっ飛ばしてしまうことがある。金メダルという「結果としての栄光」を求めるがあまりに、ドーピングをしたり、ライバルを蹴落とそうとしたり… それをイエスは「人の思い」と語られた。そして「結果としての栄光」ではなく、その過程(プロセス)にこそ意味がある、そのように教えられたのだと思う。そしてその過程を歩む時は、安易な道を進むのではなく、苦しく辛く思える体験をこそ大切にしなさい、と教えられたのではないだろうか。

栄光と、苦難と。私たちの人生には様々なことが待ち受けている。イエスの導きによって、自分の歩むべき道を進んでゆこう。