2018年3月11日(日)
マルコによる福音書9:2-10
山は、聖書の中では特別な場所として描かれる。ノア、アブラハム、モーセ、エリヤといった旧約聖書の代表的な人物が、それぞれ山で特別な体験をしている。山は神と出会う場所であり、神と人とをつなぐ神聖な場所である。
その山に、祈るためにイエスが向かわれた。するとイエスの姿が白く輝いたと記される。白は罪がない様子を表す。主の本来の姿が現わされたのである。そしてそのイエスのもとにモーセとエリヤが現れた。それは律法と預言者を代表する人物である。旧約聖書を代表する人々とイエスが語り合う姿が示された。
その様子を見て困惑したペトロは思わず叫んだ。「この記念に小屋を三つ建てましょう!」。不思議な発言である。目の前の出来事を何とか後に残したいという思いから出たのだろう。けれどもそれはよい考えとは思わない。神と人々との関係は、一つの建物に収まらないはずだ。ペトロの思いは「神をこの場所にとどめたい」という傲慢にも結び付きかねない。
この発言に対してイエスは何も答えられなかった。するとそこに雲が現れた。雲もまた神との顕現の経験である。出エジプトの民を導いたのは、「雲の柱」であった。その雲の中から神はペトロの直接語りかける。「これはわたしの愛する子」。気が付くと雲は晴れ、そこにはイエスのみが立っておられた。主の御言葉と共に立つイエスの姿があった。
主の御言葉とは、石に刻まれた言葉ではない。生きて働く言葉である。神を愛し、人を愛し、罪を赦す、それがイエスによって示された主の御言葉である。雲が晴れても、雲の中でも、生きた御言葉は共にある。
もし、いま雲の中、すなわち先の見えない苦しみ悩みの中にいる人がいたら、その人に伝えたい。その苦しみの中にこそ、あなたのそばに神がおられる、と。それは決して「苦しみを乗り越えよ」ということではない。主に向かって祈ること、悩みを訴えることができるということだ。共にその祈りをささげたい。主は決してその姿を隠されない。
そして、イエスは山を降りられる。弟子たちに「今見たことを、復活のときまでは誰にも話してはならない」と言われた。しかし私たちは「復活の後」を生きている。もはや議論すべき時ではない。神の御子が共にいることを伝えるべき時なのだ。
それは必ずしも「教会に人を誘え、家族を導け」ということではない。私たちにできることは簡単なことである。あなたが人を愛し、神を愛し、道を見誤っても共にいてくれる主の姿を信じることである。そのことを隠さないこと、そして私たちもまたイエスと同じように山を降り、教会の中にとどまらずに、人々の間に出かけていくこと、そして人々と出会うこと。それが「主を伝えること」なのである。
(文責=川上盾)