2018年3月25日(日)
イザヤ50:4-9、マルコ14:32-42
塩谷明さんの召天一周年追悼演奏会に出演する合唱団に参加し、モーツァルトのレクイエムに挑んだ。当初はあまりの難しさに辞退しようかとも思ったが、早々に諦めるのも申し訳ないと思い、練習を続けてきた。3ヶ月打ち込むと何とか歌えるようになった気がする。困難があったが、あきらめずに続けてよかったと思う。苦労が多い分喜びも大きい。簡単に歌える歌だったならば、これほどの感慨はなかっただろう。
イエスは宣教活動の最後にエルサレムに向かわれた。それは危険な旅だった。イエスの命をつけ狙う敵対者がたくさん存在していたからだ。大きな苦難が待ち受けていることを承知で、イエスは進まれた。そこで成し遂げなければならないことがあったからだ。
もしイエスがエルサレム行きを避けていたらどうなっていただろう?恐らくイエスはガリラヤで支援者に囲まれながら、おだやかな人生を歩まれただろう。人々の悩み・苦しみを癒す「対症療法的な関わり」を続けながら…。しかしそれでは人々の悩み・苦しみの根本原因は無くならない。根本原因との闘いを避けていたのでは、新たな世界は開かれない… そんな思いがイエスをエルサレムに向かわせたのだろう。
怖くなかったのだろうか?そうではない。迫りくる十字架の苦しみを前に、イエスはもだえ苦しんで神に祈られた… それが「ゲッセマネの祈り」である。「できることならこの運命を取りのけて欲しい…」血の汗を流して祈るイエス。それは私たちと同じ生身の身体と柔らかな心を抱いた人間の姿だ。
この祈りに神は応えて下さったのだろうか。祈るイエスの思いを、神は顧みて下さったのだろうか。
バビロン捕囚後の荒廃の中、憔悴し切って希望を失っていた人々に、第2イザヤは「神が助けて下さるから」と何度も語りかける。神が助けて下さる、とはどういうことか。今の苦しみ・悲しみを神がきれいに取り除けて下さる、ということか?
イザヤは知っていた。苦難が無くなることが神の助けではない、ということを。それどころか、本当の救いを開くためには、傍らで誰かが苦しまねばならないことすらある、ということを。そんなイザヤの思いが結集したのが、53章の「苦難の僕のうた」である。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(イザヤ53:11) これは十字架へ向かわれたイエスの姿そのものだ。
ゲッセマネの祈りに対して、「苦しみを取り除ける」という形では神は応えて下さらなかった。しかし神は確かにイエスを助けて下さった… そう思う。十字架の苦しみのその先にこそ、イエスが願っていた本当の「実り」があり、それを「喜ぶ心」を備える、という形で。
本当の喜びを知るためには、安易な道ではなく、険しい道を行かねばならないことがある。簡単に手に入れた歌よりも、苦労して歌えるようになった歌の方が喜びが深いということがあるように。子どもが生まれる喜びの前には、大きな産みの苦しみがあるように。夜明けの希望へと導く朝日が昇る前には、夜の中で最も深い闇が訪れるように。そして、イースターの復活と春の訪れを祝う直前には、2月の一年で最も寒い季節が備えられているように。
「神さまが助けて下さる。」そうイザヤは断言した。そしてゲッセマネで祈るイエスを神さまは助けて下さった。「あなたの苦しみには永遠の命に至る扉を開きいつまでも消えない喜びをもたらす、大きな意味があるのだ。」そんな神のみこころを、静かに、しかし力強く示すという形で助けて下さった。そのことを信じよう。