10月19日(日)
マタイによる福音書5:1~12
私たちが自分の直面している苦しみや不快さを耐え忍ぶときに、その苦しみの先にある「よろこび」を望み見て乗り越えるということがよくある。人間は時間を先取りし、幻想を食べて生きる生き物である。おぼろげであっても未来にヴィジョンが持てる時、私たちは「今の苦しみ」に耐えることができる。
そのようなソリューションの究極的なものが、来世、即ち天国での報いを信じる気持ちであろう。今苦難があっても、天国では必ず報われる。その信仰が古来から多くの人々を支えてきた。
イスラエルでは、古い旧約の時代は復活への信仰はあまり強くはなかった。しかし諸外国による支配・迫害の時代を迎えると、復活信仰への志向が見られる。現世において救いが望み見れない時、天国での永遠の命を望み見るのである。江戸時代に迫害されたキリシタン、太平洋戦争中に弾圧を受けたホーリネスの人たち。彼らを支えたのも「天国では報いがある」と信じる信仰であった。
このような信仰の在り方はすごいと思う。しかし自分が同じ信仰に生きられるかというと、少し怪しくなる。私はどうも「現世での生」に傾く思いを抱く人間なのかも知れない。むしろ江戸時代の踏み絵を踏みながら信仰を捨てきれなかった「かくれキリシタン」の心情に共感を感じる。疚しさや悩みや居直りや…そんないろんな思いを拾ってきた宗教性に、深いものを感じる。
今日の箇所はよく知られた「山上の説教」の箇所、その中でも最も有名ないわゆる「八福の教え」である。今日はその中の一つの言葉に注目してみたい。「義のために迫害されている人たちは幸いだ。天の国は彼らのものだ。」「わたしのために罵られ迫害を受け悪口をあびせられる人は幸いだ。天の国では大きな報いがある」とイエスは言われる。
義のために、すなわち信仰のために迫害された人。イエスを信じ、イエスと同じように生きたが故に、イエスと同じように迫害された人、ということである。その人たちには「天の国の報いがある」とイエスは言われるのだ。
これは感謝すべき力強い励ましの言葉なのかも知れない。しかしその言葉を受けとめる私たち人間の心を考える時、少し気になることがある。「天国での報いがあるから、このことをする」ということであれば、結局それは結論の先取りではないか、と思うのだ。
例えば、苦しい練習に耐えた高校球児が、「きっと甲子園に行ける」と信じて苦しみに耐えることは尊いことであり、そこには祝福があるだろう。しかし「苦しみに耐えたのだから、甲子園に行く資格・権利がある」と言えば、それは違うと言わざるを得ない。私たちは未来の結論を先取りすることはできないのだ。それに甲子園に行ける学校は一つだけだが、では他の行けなかった球児たちの努力や苦労に意味がなかったかというと、そうは思わない。結論ではなく過程(プロセス)にこそ、大切な意味がたたえられているのだと思う。
イエスはたとえ迫害を受けることがあっても義のために生き、小さき者・弱き者を大切に生きられた。それは「そうすることで天国での報いがある」からそうされたのだろうか?そうではなく、「そうすること自体に大切な意味があるから」ではないだろうか。「まことにあなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦」(イザヤ25:4)。イエスはこの御言葉をそのまま生きられたのだ。