2018年4月15日(日)
エゼキエル34:7-15、ヨハネ10:7-18
教会では教会員とリーダーである宗教者との関わりを、羊と羊飼いの関係において語る。「牧師」という名称が、まさに「羊飼い」という意味である。羊は警戒心が強く、いつも群れで生活をし、先導者が動くとそれにみんな従う傾向が強い。なので導く者がうまくリードしないと、群れ全体が誤った道に進みかねない…。聖書でも民衆と指導者(または神さま)との関係を、羊と羊飼いの関係に譬えられることが多い。
エゼキエル書の言葉は、牧師たる者としては大変身につまされる言葉である。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。」バビロン捕囚の苦しみの中、いわば目的を失った羊の群れのようになったイスラエルの人々に対して、本来その民を慰め良き方向へと導かなければならない指導者たち。しかしエゼキエルは実際の彼らの振る舞い、すなわち羊を養わないで自分自身を養おうとする「保身的な情けない姿」を叱責する。
けれどもエゼキエルは、続けて「神ご自身が牧者となり、人々の世話をする」と語る。「最後は神が導いて下さるから、安心せよ」ということだ。ふと気になることがある。その時、役割を果たせなかった牧者たちはどうなるのであろうか?失格者の烙印を押され、退場を命じられるのだろうか?
確かに厳しい言葉は語られている。しかし「お前たちは消え去れ!」とは語られていない…そのように受けとめたいと思う。なぜなら、彼ら指導者たちもまた不完全な人間であり、「迷える羊」のひとりだと思うからだ。
新約の聖句は良く知られたイエスの言葉である。「わたしはよい羊飼い、よい羊飼いは羊のために命を捨てる」。牧師の就任式などで、牧師としての覚悟を呼びかける意味でよく用いられる。しかし私は「お前は羊のために命を捨てられるか?」と問われて、「ハイ、できます!」と即答できないためらいがある。情けない話であるが。
羊のために命を捨てるよい羊飼い…。それはイエスご自身のことである。弱い不完全な人間である私が、「イエスと同じ存在になれる!」と思うことの方が傲慢ではないか…そう思ってしまうのだ。しかし「よい羊飼い」であるイエスの導きに対して、いち早くそれを察知して従う「最初の羊」にはなれるかも知れない。
教会の歩みはそんな「羊たちの冒険」だと思う。強い牙も鋭い爪も、毒も棘も持たず、臆病で弱い存在で、だからこそ互いにつながり助け合って歩んでゆく、そんな頼りない旅路だ。でも私たちに恐れはない。「ほんとうの牧者」であるイエスがおられるからだ。聖書に記されたイエスの教えと生き様に導かれて、この「羊たちの冒険」を続けていこう。