『 イエスが与える新たな掟 』

2018年4月22日(日)
レビ19:9-18、ヨハネ13:31-35

本日行なわれるの教会総会では、教会規則の変更(役員定員の削減)について話し合う。人の関わる組織や団体の多くは規則を持ち、その規則に基づいて円滑な活動や運営が行なわれるのが常である。時の流れの中でその規則が現実に合わなくなることがある。そのような場合には規則を改訂すればよい。どんなに現実に合わなくても変更しない、というのでは、硬直化した組織・団体になってしまうと思う。

一方、今年の国会でひとつの焦点になると言われていたのが、日本国憲法第9条の改正である。戦争の放棄を謳い軍隊の非保持を定めた憲法を、変えたくてしかたない人々がいるのだ。この場合、「憲法が現実に合わなくなっているから…」との理由で変えるのがふさわしいのであろうか。むしろ憲法9条は世界に誇るべき崇高な理念であり、目指すべき目標だと思う。早急に変えることは反対だ。その意味で私は護憲論者である。

では日本国憲法とはどんなことがあっても変えてはならない「不磨の大典」か?というと、そうとも思わない。憲法も他の民主主義社会の規則と同じものであり、変更可能なものだと考えている。本当に必要なことであれば、丁寧な説明と時間をかけた論議の末に変えることがあっても構わないと思う。その意味では、私は「護憲」原理主義者、ではない。

聖書にも規則(掟)がある。それが律法でありその中心にある十戒だ。この十戒や律法は、民主主義社会における規則とはいささか異なるものである。それは神が与えられたものであり、ある意味で「不磨の大典」である。今でもユダヤ人は律法を守って生活するが、なぜそれを守るのか、合理的な根拠の分からないものがいくつもある(ブタやタコを食べない、安息日にはスイッチすら押さない、等々)。彼らが律法を守る理由はただ一つ、それは「神が与えた律法に記されているから」だ。では律法と現実の齟齬が生じたらどうするのか。その時は条文を変えるのではなく、解釈を加えていくのだという。

レビ記はそんな律法が全面を占める書物だ。その中でも今日の箇所は、律法の基本理念・原則を現わすものだと言われている。それはひと言で言えば「弱い者と共に歩め。自分を愛するように隣人を愛せよ」ということだ。無味乾燥に見える条文の中に、そのような普遍的なメッセージが篭められている。そのメッセージを大切に受け継いできたのが、ユダヤ人の歴史なのだ。

しかし時代の流れと共にその律法が、人々にある種の「息苦しさ」を与えるようになった。律法学者・ファリサイ派たちが登場したことがその原因だ。彼らが律法およびその解釈を、形式的に遵守するよう人々に強いることによって、民衆は生きる喜びを失い、反発を感じながらも反論できず、悶々とした思いをかかえながら生きていかざるを得なかった。

そんな中でイエスは、時には律法に違反しながらも、自由に生きられた。安息日に自由に飲み食いし、病人を癒された。それを「律法違反!」と咎める人々に「安息日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではない」と言い切られた。イエスは律法を軽んじられたのか?そうではない。律法の個々の条文にこだわるのではなく、むしろ律法の基本原則を大切に生きられたのだ。即ち「弱い者と共に歩め。あなたの隣人を愛せよ」と。

今日の箇所はそんなイエスが与えられた新たな掟である。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい」。それは決して新しい掟ではない。みんなが良く知っている古い掟である。しかしその掟を、他の全てを凌駕する最も大切な掟として示されたところにイエスの新しさがある。教会に集い信仰による歩みを目指す者にとっての究極の目標、それはこのイエスの与える古くて新しい掟に従うことなのだ。