2018年5月13日(日)
ヨハネによる福音書17:21-23
5月10日(木)に共愛小学校の礼拝での話を依頼された。ちょうどその日が昇天日だったので、小学1-3年生の子どもたちにイエス・キリストの昇天の話をした。「第2の受難」とも称される師の不在の状況に置かれた弟子たちの心境を、迷子の子どもの気持ちに譬えて話をした。
迷子の子どもは心細くて泣く。それは十字架の直後、金曜日の夜の弟子たちの気持ちに近い。しかしその悲しみと不安は、突然大きな喜びと安心に包まれる。3日後日曜日の朝、イースターの出来事である。それは迷子でべそをかいている子どものところに、母親が探し当てて来てくれた喜びに等しい。
ところがその母は、家に帰るまでの道のりを伝えると、さっさと再びいなくなってしまった。残された子どもはひとりで自分の力で家まで帰らねばならない、そんな不安な状況に再び置かれた弟子たち…。それが昇天日の弟子たちの心境だ。
彼らにとって「第一の受難」、すなわちイエスの十字架の出来事は、恐怖に近い心の凍り付くような体験だっただろう。しかし昇天日による「第2の受難・師の不在」という出来事は、少し違う受けとめ方がなされたのではないかと思う。
確かにそこにも不安や心細い思いはあっただろう。しかし「復活」という体験、すなわち神がイエスを見捨てなかったという出来事を弟子たちは知っている。不安な心を抱えつつも、その神を信頼して、「自分の力で家まで帰ってみよう」と心を向けることができたのではないか。
再び道に迷うこともあるだろう。けれどもそのような経験を何度も積み重ねながら、やがて親にすべて依存するのではなく、自立した歩みへと成長するよう促されていくのである。
今日の箇所は、十字架を前にしたイエスの祈りの言葉である。これから弟子たちが「師の不在」という状況を迎えることを見越して、イエスが最後にささげられた祈り。その中でイエスはくりかえし「一つとなるように」という言葉を祈っておられる。「師の不在」の状況の中を、心ひとつにつながって歩んでいく弟子たちの姿を期待し、神の導きを祈られるのだ。
その「ひとつになる」とは、具体的にはどんなつながりだろうか。みんなが同じ考え、同じ意識を持って、誰一人異論をはさまず一糸乱れぬ隊列を組むような歩みではないと思う。そのような管理された、統一された集団は、キリストの共同体ではない。
むしろひとりひとりはみんな違う、違っていていい。しかしその違いを互いを分裂させる根拠にするのではなく、キリストにつながるが故に認め合い生かし合って歩む…。それこそがほんとうの教会の姿だと思う。
昇天日、「師の不在」の不安の中を、それでも自分の力で、そして仲間への信頼を携えて歩み出す弟子たち。そんな彼らに、神の不思議な導きがまもなく降されるのである。