2018年5月27日(日)
ローマの信徒への手紙8:12-17
ペンテコステの日、聖霊を受けた弟子たちは力強く立ち上がり、今まで行ったことのない国の言葉でイエス・キリストの福音を語り始めた…それが聖書の記述である。実際にはそんな「突然・急激」な出来事ではなく、弟子たちは少しずつ勇気を取り戻し、そして時間をかけて他国の人にも福音を伝えていった、ということなのだろう。その間ずっと、目に見えない聖霊の導きがあったことを聖書は示している。
パウロは「神の霊に従って歩む者は皆、神の子なのです」と語る。「神の子」とは、ただひとりイエス・キリストだけではない。私たちもまた「神の子」だということだ。もちろん、いきなり何の資格もなしに「神の子」というわけではない。「神の霊に導かれる者」、それがポイントである。今の時点での自分がそれにふさわしいかどうかは分からないが、そのように招かれていることに感謝したい。
パウロは「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とも述べている。「父なる神」「神は『父』である」、それがキリスト教の伝統的な神理解である。キリスト教の母体であるユダヤ教(旧約聖書)でも神を父と呼ぶ伝統が散見される(イザヤ63:16、申命記1:31、詩編68:6、他)。
これに対し近代になって、神を父とするのは家父長制・父権制度の名残りだという批判も現れてきた。聖書は押しなべて神を父と呼んできたわけではない(創1:27,イザ49:15など)、聖霊を表す「ルアッハ」は女性名詞である、等々。厳しくむやみやたらに威張っていて有無を言わさず服従させる…そんな父のイメージに代わって、「母なる神」というとらえ方もあっていい…そんな考え方もある。
しかし聖書が示す一つの決定的な事実がある。イエス・キリストは神を「父」と呼んでおられたということだ。ただし、それは批判されているような父権制的な「父」のイメージではない。イエスは神を「アッバ(父)」と呼ばれる。それは幼な子が始めて口にする言葉、日本語で言えば「おとうちゃん」という語感に等しいものである。イエスは、幼な子が全幅の信頼を込めて慕い求めるような思いで「アッバ」と呼ばれたのである。
そのイエスの「アッバ」の姿を最もよく表すのが「放蕩息子のたとえ」である。そこに描かれる父は、「厳しく鍛え、裁く父」ではなく、「限りなく慈しみ、受けとめ、そして赦す父」なのである。
パウロは「人を奴隷にし、恐れに陥れる霊」ではなく、「神の子とする霊」こそ聖霊の導きだと語る。その導きのもとで、「私はダメだ」とあきらめるのではなく、「私のような者でも…」と受けとめられるようになる…それこそが「神の霊によって導かれる者」であり、「神をアッバと呼ぶ神の子」の姿なのだ。