2018年7月1日(日)
ガラテヤ5:2-6
クリスチャン独特の言い回しに「救われている」というものがある。「私が救われたのは18歳のときです」「うちの息子はまだ救われていないんですよ…」ここでの「救われている」というのは一般的な意味ではない。洗礼を受けてクリスチャンになった人のことを指す言い回しなのである。
私は昔からこの「救われた者=洗礼を受けたクリスチャン」という言い回しに違和感を感じてきた。自分のことを「救われた」と呼ぶのはまだよい。しかし洗礼を受けていない人のことを、どうして「救われていない」などと言えるのだろう。人を救いに導くものはキリスト教に限らない、他にもあるじゃないか、と思ってしまうのだ。
「洗礼を受けたクリスチャンだけが救われる」と言うならば、洗礼とは救いを得るための条件になってしまう。それはあのルターが批判した「免罪符」と同じになるのではないか。救いとは神さまからただ恵みとして与えられるものであって、人間の側の何らかの条件によって与えられる「ごほうび」ではないはずだ。
しかし人間は「あれかこれか」「OKかNGか」という区分けをし、自分をOKの側に置くことで安心したがる一面を持っているようだ。その方が分かり易いからだろうか。「誰が救われるのか」「救われた者とは誰か」という問いは、昔も今も立ち上がってくる。
イエス・キリストの時代(ユダヤ教の時代)、その問いに対しては明確な基準があった。それは神の律法を守る者であり、より具体的には割礼を受けた者であった。割礼とはユダヤ人の伝統的な儀式であり、神の救いの確かさを肉体に刻むしるしである。
初代教会の人々にとって、この割礼をどう受けとめるか?というのは私たちの想像以上に大きな問題であった。なぜなら、割礼を受けない異邦人の中に、イエス・キリストを信じる人たちが次々に現れたからである。
その現実に対してユダヤ人保守派クリスチャンの人々は言った。「異邦人もまず割礼を受けるべきだ。それからでないと救われない」。外国人力士は帰化をして日本人にならなければ横綱になれない、といった感じの主張である。
これに対してパウロは、救われるのに割礼は必要ない!と言い切る。「人は割礼なしでも、律法の行ないが完全でなくても、ただイエス・キリストを信じる信仰により救われる。」それがパウロの主張だ。ガラテヤ書にはそんなパウロの思いが全面的に展開されている。神の救いとはユダヤ人だけの特権ではなく、異邦人を含めたすべての人に開かれたもの。パウロはそれをイエスの生き様から学んだ。そして彼はこう記す。「イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
「救われた者」とは誰のことだろうか?割礼や洗礼がその条件になるのではない。イエス・キリストの示された愛の実践、そこにこそ人間が生きる上での本当の豊かな喜びがある…。そのことに気付いた人こそ「救われた者」なのである。
「うちの息子は救われていないんですよ」という人がいたら、こう言ってあげたい。「そうじゃないでしょう。息子さんは自分が救われている、救いへを招かれている、そのことにまだ気付いておられないだけではないですか?」と。「こんなみじめな(wrech)私をも救われた、神さまの驚くべき恵み(Amazing Grace)」、その導きを信じて歩みたい。