2018年7月15日(日)
サムエル上17:38-50、 Ⅱコリント6:1-10
先週、オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫被告の死刑が執行された。あの事件は宗教界に大きな衝撃を与えた。宗教という世界の「危なさ」が現わされてしまった…そんな思いを抱いた人も多いだろう。世間の常識・価値観とかけ離れた論理によって精神を支配された人々が行なった凶行…。改めて宗教であっても世の価値観からまったく離れてしまうのは危険なことだと思わされる。
しかし一方で、宗教とは一般社会の価値観とは異なる価値体系を持つ世界でもある。「社会とまったく同じ価値観しか持たないのであれば、宗教の存在価値はない」(釈徹宗)。人間の価値観とは異なる神仏の価値観に触れ、そこで自分を見つめたり修正したりする…。どの宗教もそのような営みをもっているはずだ。
世間一般の常識に収まって生きている自分を疑ってみる、「本当にそうなのか?」と問い続ける、そして本当に大切なものは何かを考える…。それが宗教の果たす役割だと思うのだ。
旧約の箇所は、少年ダビデとゴリアトの闘いの物語。年端もいかない少年であるにもかかわらず、強大な巨人ゴリアトを打ち倒したダビデの勇気と知恵。まさに「ジャイアント・キリング(番狂わせ)」である。しかしはたしてこの物語の大切なポイントが「ダビデは賢く強かった」というところにあるのだろうか?
ダビデが預言者サムエルによって次の王として選ばれる場面がある。そこでサムエルが聞いた天の声が記されている。「容姿や背の高さに目を向けるな。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。(Ⅰサム16:7)武勇に優れた屈強な若者が王位に相応しいのではない。外見や功績ではなく心を見る、「それが主の選び・神さまの価値観だ」ということだ。
新約の箇所は、伝道者パウロによる手紙の一節。元はユダヤ教のエリートであったパウロは、イエス・キリストとの出会いにより自分のステイタスを「ちり・あくた」のように感じるという価値観の大転換(目からウロコ)を経験する。
パウロにはひとつの持病があり、相当悩まされたようで、何度も神に祈ったことが記される。しかしそこでパウロが聞いたのは「私の恵みはあなたに十分だ。力は弱さの中でこそ発揮される」という神の言葉だった。この経験からパウロは「自分の弱さを誇る」者へと変えられる。まさに「神の価値観」で生き様を変えられたのだ。
強さ・速さや、成功、金儲けを求める「世の価値観」とは異なる「神さまの価値観」のもとで、みんなが心開き共に生きる者とされる…この後歌う「アイオナ共同体賛美歌」にはそんな歌がいくつも含まれている。そんな歌を共に歌いながら、私たちの人生に質的な転換をうながす「神さまの価値観」を求めてゆこう。